江島別符(読み)えしまべつぷ

日本歴史地名大系 「江島別符」の解説

江島別符
えしまべつぷ

宇佐平野の中央部北端、駅館やつかん川最下流域西岸に位置し、現宇佐市江須賀えすか住江すみのえ沖須おきのすの地域に所在。平安時代末期、宇佐宮による江島井堰開削によって辛島からしま郷内に開発されたと推測される。宇佐宮領。鎌倉初期成立の「宇佐大鏡」によると田数六一町一反三〇代・用作三反。永万二年(一一六六)九月二五日の宇佐宮縫殿宇佐太子解状案(益永文書)に「江島別符内小犬丸并弘末等名田」とみえ、太子は父である宇佐宮権大宮司宇佐昌隆より相伝した宇佐宮領の当別符のうち小犬丸こいぬまる名などの安堵を大宰府に申請し、認められている。これは長寛二年(一一六四)昌隆の死去後、太子がその所領を相続したものである(承久三年八月日「宇佐嗣輔申状」同文書)。文永二年(一二六五)六月宇佐宮政所惣検校益永行輔は当別符内吉弘名田畠などを妻子に譲与するため本家(近衛家)政所の安堵を申請している(「益永行輔申状案」同文書)。永仁五年(一二九七)一一月幸源は当別符のうち為末ためすえ名の田地などの安堵を申請し、認められている(「宇佐宮神官基光息僧幸源重申状」小山田文書)

延慶二年(一三〇九)宇佐宮官人代粟田(江島)家房は神領興行の綸旨により武家被官の上野円性による「今藤領内辛島郷片下田地四段・江島別符楠木畠参段落畠参段按梅室薗一所等」の知行を停止し、返付せられんことを訴えている(同年九月日「粟田家房申状」中島文書)。また元徳二年(一三三〇)には神領興行の法により弥勒寺供僧栄賢が藤崎弥次郎に本物返しで売却した当別符藤崎ふじさき村古薗畠地三〇代が栄賢に返付されている(同年一一月二四日「宇佐宮政所下知状」北艮蔵文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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