日本歴史地名大系 「江戸城跡」の解説
江戸城跡
えどじようあと
東京湾に臨む台地上に設けられた平城跡。中世は主として太田道灌の居城、天正一八年(一五九〇)から慶応四年(一八六八)の間は徳川氏一五代の居城。国指定特別史跡。
〔江戸城跡の地形と発掘調査〕
江戸城は武蔵野台地東縁部から東京低地にまたがって位置していた。このうち旧
現在の地形は各郭ごとにおおむね平坦で、本丸から東では二ノ丸、三ノ丸へと段階的に低くなっている。ところが城内の各調査地点やボーリングデータから得られる地層を大観すると、吹上では表層の地層が欠失し、地表直下に上部を削平された関東ローム層が露出している。一方、本丸から東側は近世の厚い盛土で覆われており、この盛土層は本丸では最大一〇メートルにも達するという。武蔵野台地の標高は東に向かって漸減するが、内郭では最高所の吹上を削平し、本丸・二ノ丸・三ノ丸は盛土によって雛壇状に造成されたと推定されている。もちろん西丸下や
江戸城跡
えどじようあと
下江戸の北東にある丘陵の山頂字
「新編常陸国誌」の江戸氏の項に「那珂郡江戸村ヨリ出、那珂五郎通泰ノ後ナリ」とあり、同項によると、藤原秀郷五世の孫公通の二子通直が常陸に移り、那珂郡河辺郷に住み河辺太夫と称した。子通資は那珂太郎と称して初めて那珂氏を名乗った。南北朝期には那珂通辰は南朝方として、延元元年(一三三六)北畠顕家の別将に従って佐竹貞義と久慈郡
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報