朝日日本歴史人物事典 「汪応祖」の解説
汪応祖
生年:生年不詳
古琉球三山時代の山南(南山)の王。先代の王承察度に子がなく従弟の汪応祖が後を嗣いだ。武寧9(1404)年,明の成祖の冊封を受けた。在位中の11年間に毎年のように進貢使を派遣し,盛んに対中国貿易を展開。武寧9年に派遣使節が磁器を密買するという不祥事を起こしたが,「遠人利あるを知り,禁あるを知らず」として許された。その翌年,寨官(按司)の子李傑を官生(国費留学生)として派遣。尚思紹9(1414)年兄の達勃期に殺害されたが,諸臣は連合して達勃期を討ち,王位は汪応祖の子の他魯毎に継承された。しかしその間の事情は必ずしも明確ではない。汪英紫氏の子とする説もあるが,明らかではない。<参考文献>嘉手納宗徳『琉球史の再考察』
(田名真之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報