サイイド朝 (サイイドちょう)
Sayyid
インドのデリー・サルタナットのうち4番目にあたる王朝。1414-51年。ティムールと同盟し,ティムールによってムルターン,パンジャーブ両地の支配者に任じられていたヒズル・ハーンKhizr Khānは,トゥグルク朝最後の王が1413年に死んだあとデリーを占領し,ここにサイイド朝を創建,14-21年の間王位にあった。次のムバーラク・シャー(在位1421-34)の時代には名目上もティムール朝の支配を脱し,一時的ながらパンジャーブ地方や北インドのドアーブ地方を支配したが,全体として,この王朝はデリー・サルタナットの中で最も勢力が弱く,末期には,その支配領域が〈デリーからパーラム(現在のデリー市南郊の空港があるところ)まで〉とざれ歌にいわれたほどであった。51年ローディー朝に取って代わられた。
執筆者:小名 康之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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サイイド朝
さいいどちょう
Sayyid
インドのデリーに都を置いたムスリム王朝(1414~51)。いわゆるデリー・サルタナットの4番目の王朝。その前のトゥグルク朝が1398年のティームールの侵略によってまったく衰退してしまったのち、ティームールの一部将であったヒズル・ハーンによって創始された。しかし、王朝は弱体で、40年たらずで滅亡、ローディー朝にかわった。
[小谷汪之]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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サイイド朝
サイイドちょう
Sayyid
インド,デリー・サルタナットの4番目の王朝 (1414~51頃) 。チムール (帖木児)の侵入によってトゥグルク朝が衰えると,パンジャブの統治にあたっていたヒズル・ハーンがデリーに新王朝を創設した。当時北インドには諸勢力が乱立していたので,この王朝はデリー周辺を支配するのみで,デリー・サルタナットのなかで最も勢力が弱く,ロディー朝によって,4代 37年で滅亡した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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サイイド朝
サイイドちょう
Sayyid
1414〜51
北インドのデリーを根拠にしたデリー−スルタン王朝4番目の王朝
1414年ティムールの部将ヒズル=ハーンがデリーを占領して,この王朝を開いた。デリーを中心とする地域を支配しただけで,4代37年で滅んだ。歴代君主は,ムハンマドの子孫(サイイド)と自称した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のサイイド朝の言及
【デリー・サルタナット】より
…デリーに都を置き,ムスリムの君主([スルタン])が支配したため,この名称で呼ばれ,デリー・スルタン朝,デリー諸王朝とも総称される。普通,歴史的には[奴隷王朝](1206‐90)に始まり,[ハルジー朝](1290‐1320),[トゥグルク朝](1320‐1413),[サイイド朝](1414‐51),[ローディー朝](1451‐1526)までの5王朝,320年間を指していうが,その語の意義上からは,スール朝(1538‐55),[ムガル帝国](1526‐38,1555‐1858)までも含んでよい。 前述の5王朝についていえば,最後のローディー朝のみがアフガン系の君主で,他の4王朝の君主はすべてトルコ系である。…
※「サイイド朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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