日本大百科全書(ニッポニカ) 「沖縄復帰運動」の意味・わかりやすい解説
沖縄復帰運動
おきなわふっきうんどう
第二次世界大戦後27年間にわたって日本から分離され、米軍の直接統治下に置かれた琉球(りゅうきゅう)諸島の住民が、祖国日本への帰属、沖縄県の復活を要求して長期的に進めてきた運動。現地では祖国復帰運動という。沖縄戦における米軍占領以来、旧沖縄県を中心とする南西諸島(琉球諸島、奄美(あまみ)諸島を含む)地域は日本本土から行政分離されたが、1952年(昭和27)4月28日発効の対日講和条約第3条によって、同地域は無期限にアメリカ合衆国の施政権下に置かれることが確定した。同条約に基づいて米軍は無制限に使用できる恒久基地を建設し「太平洋の要石(キー・ストーン)」と公称した。琉球住民は異民族の軍事支配のもとで無権利状態に置かれ、軍事基地の重圧が生活や人権を圧迫した。かかる状況のなかから1950年代初頭から復帰運動が起こり、運動が先行した奄美諸島は1953年12月に返還されたが、軍事基地が集中している沖縄諸島は取り残された。1956年には軍用地接収に反対する島ぐるみ土地闘争が起こり、この前後に各種の大衆運動の組織化が進み、1960年4月28日沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の結成に結び付いた。初期復帰運動は「民族的悲願としての祖国復帰」というスローガンを掲げた散発的・分散的運動にすぎなかったが、復帰協結成後は県内の主要諸団体を結集し、毎年4月28日の「屈辱の日」(沖縄デー)を中心に網の目の恒常的な運動を組織し、復帰要求のみならず、反戦反基地闘争、自治権拡大運動、生活擁護・人権擁護運動など県民の諸要求を反映した広範な運動を展開し、島ぐるみ運動にまで発展した。1960年代後半には沖縄違憲訴訟闘争(1965)、教公二法闘争(1966)、裁判移送撤回闘争(1966)などの大運動を経て、1968年の主席公選を実現させ、復帰運動の指導者である屋良朝苗(やらちょうびょう)を当選させた。運動の高揚とともに運動方針も深化し、1967年復帰協総会では「安保条約廃棄、核基地撤去、米軍基地反対」の方針を明確に打ち出し、本土の沖縄返還運動とも結合して日米両政府に沖縄返還を迫る原動力となった。1972年5月15日、核の扱い、米軍基地の態様など、県民の多くの不満を残しながらも、沖縄の復帰は実現した。
[大城将保]
『沖縄県祖国復帰闘争史編纂委員会編『沖縄県祖国復帰闘争史』(1982・沖縄時事出版)』