朝日日本歴史人物事典 「沢田清兵衛」の解説
沢田清兵衛
生年:明和1.2.1(1764.3.3)
江戸後期の新田開発,治水功労者。越中国礪波郡光明寺村(高岡市)の肝煎家に生まれる。幼名左知蔵。清兵衛は世襲名。幼少期より庄川の洪水に悩む農民を見て育ち,そのため越中の算学者石黒信由に和算,測量術を学んだといわれる。天明3(1783)年の洪水被害は数十カ村におよんだ。清兵衛は被害地の状況を地図に整理して復興策を立案。加賀藩でもその策を評価し寛政5(1793)年に責任者に任用した。10年を経て被害地2100ha余はもとより,さらに不毛の庄川河原3100ha余をも美田とした。没後,郷民は清兵衛を川原神社に祭った。川を上流から河口までを一体の生き物としてとらえた早い人のひとり。<参考文献>西礪波郡教育会編『開墾治水功労者沢田清兵衛』,『戸出町史』
(高瀬保)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報