宴席に招かれて主として日本調の遊芸で興を添える職業女性。関西では芸子(げいこ)といい,明治以後の官庁用語では芸妓(げいぎ)と称する。芸者には,遊郭に発生した郭(くるわ)芸者と市中に散在した町芸者との2系統があった。郭芸者の出現は,大坂で享保(1716-36),江戸で宝暦(1751-64)ごろであるが,その前身に元禄時代(1688-1704)の太鼓女郎(たいこじよろう)がいた。遊女の芸能不足を補うために生まれたという。出現当時は男芸者もおり,彼らは邦楽の芸名を名のるものが多かった。女芸者は仮名2字の名に〈お〉をつける“おの字名”を用い,単に芸者というときは女芸者をさす。町芸者の原形も元禄時代の踊子に始まる。踊子は,踊りを表芸にして市中の各所に起こった私娼(ししよう)であった。これが明和(1764-72)ごろに町芸者となり,料理茶屋,舟宿のほか武家,町方の屋敷に招かれて宴席に興を添え,遊山船行の供に出張するとともに,売春もした。これには弾圧もあったが,江戸末期になると各地で芸者遊びが盛んとなり,辰巳(たつみ)芸者,羽織芸者とも呼ばれた江戸の深川芸者が意気と俠気(きようき)とを認められたのを始め,遊郭に代わる新興歓楽地として活況を呈した。明治以後の東京では深川にかわって柳橋が盛んになり,やがて政・官・財界をあげて,新橋を中心として〈待合政治〉をくり広げたため花柳界は大発展した。芸者屋も組合を作り温習会を催して売名と技芸の向上をはかった結果,国際的に〈ゲイシャ〉の名を広めた。しかし,現在は一流地といわれる花柳界に三味線などの古典芸能の技芸保持者がいる一方,まったく技芸がなく売春専門の女性を芸者名義で抱える業者が黙認されているなど,芸者の性格,水準は一様でない。
芸者となるには,10歳前後の少女が仕込みの契約で下地っ子として雇われ,雑用に従事しながら音曲,舞踊を稽古し,12歳ごろにお酌(雛妓,舞妓(まいこ))となり,17歳ごろに一本立ちするのが,明治~昭和の基本型であった。ほかに,お酌を経ずに芸者になることもあり,他の土地へ移籍することもあった。遊興料は玉代(ぎよくだい)と呼び,その単価を1本という。江戸時代に線香1本の燃える時間を単位とし,これを○印で記帳したなごりで,今はこれを時間に換算して用いている(例えば1本を40分または60分などと定める)。芸者は,少数の自前芸者,看板借りのほかは芸者屋(置屋)に前借金を負い,金額,年期により,丸抱え,七三,叩分け(たたきわけ),逆七などと収入の配分比率を契約した一種の身売が多かった。1947年以後は公安委員会の監督下におかれ,前借金による身売の禁止とともに,芸者屋に住み込む必要がなくなり,通勤の芸者も現れた。芸者の営業形態は地域によって差があり,前記の1本の単位や時間帯による区別,または祝儀の額など不統一である。出先(料理屋,待合など)からの招請は検番を通す例が多く,その場合は代金の清算も検番が行う。芸者の別称ともなった〈左褄(ひだりづま)〉は,着物をはしょらずに着るために戸外を歩くときは左手で褄をとる所作に基づくが,裾を引いた〈出〉の衣装を着て約束(予約)の席へおもむく習慣がすたれるとともに,左褄を見ることはまれとなった。
執筆者:原島 陽一
中国では芸者のことを妓女(ぎじよ)という。妓女は芸妓ばかりではなく,娼妓をも意味し,売春を専門とする下級の妓女は野妓女といい,また上海方面では野鶏と呼ばれる。これらは人民共和国治下の現在では姿を消している。妓女をとくに歌妓と呼ぶ場合があるように,芸妓にあたる妓女の表芸は歌にあるが,清吟といって,彼女らは歌うだけで,宴席で胡弓などをひくことはない。胡弓などをひくものは別に呼ばれるのである。この点歌と三味線とをともにする日本の芸者とはちがっている。かつて北京の前門外には妓館(妓院)が軒を並べ,多くの妓女が抱えられていた。妓館に行くと,抱えの妓女がかわるがわる幕の間から顔を出し,客は好みの妓女を指名して遊んだ。ただ妓女を相手に茶を飲むだけなのはもっとも安い遊びで,これを茶囲あるいは打茶囲という。また出局といって妓女が宴席に呼ばれて行くこともあった。
中国における妓女の起源はあきらかでないが,古く邯鄲(かんたん)の美姫(びき),中山の名娼などの語があり,《史記》の貨殖列伝に,中山の〈女子は則ち鳴瑟(めいしつ)を鼓し……貴富に遊媚(ゆうび)し,後宮に入り,諸侯に徧(へん)し〉と見え,また〈趙女鄭姫(ちようじよていき),形容を設け,鳴琴を揳(ひつさ)げ,長袂(ちようけつ)を揄(あ)げ……老小を択(えら)ばざる者は,富厚に奔(はし)る〉とあり,これは妓女の先駆けともいうべく,彼女らは豪富の家にいりこんだようである。このような家妓は南北朝時代がもっとも盛んで,妓,妓女,伎妾(ぎしよう),姫妾(きしよう),侍妾,侍婢(じひ)などと呼ばれて貴族,豪族の家に多数抱えられ,純然たる妾や婢とはややちがい,声楽に従事し,来客のさい酒間の斡旋などをしていた。東晋の王愷(おうがい),石崇などは多数の家妓を抱えていたので名高い。これに対して,唐・宋時代には官妓が大いに栄えた。官妓は前漢の武帝が軍営に妓女をたくわえ,それを妻のない軍士に侍せしめたのにはじまるというが,魏晋南北朝時代に楽戸の制が設けられ,特殊の賤民(せんみん)である妓女が楽戸に入れられ,唐代にはその籍が教坊に属していた。唐代には長安の平康里は妓女のおるところとして知られ,彼女らの中には詩文に長じ,また小説の題材となった者も少なくない。唐の孫棨の《北里志》は平康里の妓女のことを記したもので,当時平康里の妓女は3曲に分かれて南曲,中曲が上等とされ,そこに貴紳富豪が盛んに出入したという。妓女は幼少のときに養女にされたり,いなかの貧家の女が雇われたり,良家の女の転落したりした者が多く,一度この境遇にはいれば,なかなか抜け出すことができず,彼女らは仮母(養母)から厳重に音曲を仕込まれ,外出も自由でなかった。仮母は多く妓女の出身で,中には数妓を育てて産をなした者もあった。唐代にはなお塩鉄転運使の所在地で経済上の要地であった揚州をはじめ,洛陽,湖州,成都などにも妓女が多数いた。揚州は唐代美人の産地として名高いが,明代になっても,南京と並んで妓女が多数いたので知られている。清朝では乾隆(1736-95)以後,妓女の数がいちじるしく増加して盛行をきわめ,南京,北京,揚州,蘇州,寧波(ニンポー),広東などがその繁盛をうたわれ,アヘン戦争以後,上海も妓女の盛行をみた。ことに蘇州は美人の産地,妓女の供給地として有名であった。妓女は特殊の賤民として楽戸に入れられ,明代には謀反者の妻妾士女が楽籍に編入されて賤業に従事させられたが,清代に奴婢解放の気運がたかまり,1723年(雍正1)楽戸の大解放がおこなわれ,妓女は良民として扱われるようになった。
なお朝鮮の芸者は妓生(キーセン)と呼ばれ,官妓と民妓の二つがあり,ともに賤民として扱われていた。いまは大韓民国に民妓のみが残っており,置屋制度はない。
→妓生
執筆者:鈴木 俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
芸妓(げいぎ)の古称および俗称。関西では芸子(げいこ)と俗称する。料理屋、待合などで伎芸(ぎげい)を演じ酒食を斡旋(あっせん)して興を添える女性。その源流は古代の白拍子(しらびょうし)にもみられ、旧中国の歌妓などとともに東洋的接客婦の一種である。
[原島陽一]
芸者の前身は、元禄(げんろく)年間(1688~1704)に二つの別の形のものがほぼ同時におこった。その一つは、遊廓(ゆうかく)で遊女の伎芸不足を補うために生まれた太鼓女郎で、これがさらに専業化して宝暦(ほうれき)年間(1751~64)から芸者とよばれるようになった。芸者とは芸の巧みな者のことで、当時は遊芸に限らず武術に優れた者も芸者であった。遊廓では、幇間(ほうかん)の男芸者と区別して女芸者とよんでいた(のちに芸者は女芸者だけをさすようになったが、関西では逆に男芸者の略称となり、女芸者は芸子となった)。女芸者は初めは遊女屋の専属であったが、のちに他の遊女屋へも出張するようになり、吉原では遊女屋に同居しない仲之町芸者(見番芸者ともいう)も出現した。遊廓の芸者は吉原の場合にもっとも特徴的で、売春はせずに伎芸(三味線音楽と踊り)だけによる専門職業人として遊女とは違った吉原芸者の見識を示したもので、寛政(かんせい)(1789~1801)以後明治までこの特色が守られた。
他の一つは、元禄ごろに出現した踊り子という私娼(ししょう)である。名前のように踊りを名目として、招きに応じて出張する形式であった。初めは少女が多かったが、しだいに年ごろの女性が増えるとともに、踊りから三味線音楽の芸に移っていき、明和(めいわ)年間(1764~72)には遊廓の女芸者との対比から、これを町芸者とよぶようになった。町芸者が武士や町人の私宅へ出張したのは踊り子を踏襲したものであるが、料理屋などへ招かれることも多く、やがて料理屋、船宿(ふなやど)などをおもな出先として接客するようになり、その売春もなかば公然と行われた。
前記の2系統の芸者は発生こそ違ったが、歌舞音曲で客を接待するという点では共通しており、売春についても、江戸吉原のほかは遊廓芸者といえども禁止は不徹底であり、関西の芸子は多くが遊廓内に所属していながら売春を前提としていたから、2系統に実質的な違いはなかった。ただし、その後の数的発展からいえば、私娼街の繁栄とも関連して町芸者系のほうが多く、江戸では2、3人の芸者がいない町はないといわれたほどに増加した。なかでも深川の芸者は町芸者の代表といわれ、容姿、接客態度、心情における意気と侠気(きょうき)とは客の支持を受け、辰巳(たつみ)芸者(深川が江戸の辰巳の方角=南東にあたることによる)と特別の名称が与えられていた。黒縮緬(ちりめん)の着物に幅広の帯を後ろに垂らし素足の爪(つめ)に紅をさすなどの風俗も粋(いき)なもので、芸者としては珍しく羽織を着用したので羽織芸者ともよばれた。服飾物は時代や土地によって違ったが、外出の際に左手で裾(すそ)を引き上げる左褄(ひだりづま)は関西の芸子にまで及ぶほどの特徴的なしぐさで、のちに芸者の異名となった。
明治以後は警察の監督下に置かれ、官庁用語には芸妓が多用されるようになり、花柳界勢力の増大が芸者を急増させた。これには政官財界の待合・芸者の利用が深く影響しており、社交界の中心的存在として娼妓よりも上位の接客婦の地位を与えられた。これとともに伎芸の質的向上を図る動きが一部におこり、のちに一中節、宮薗(みやぞの)節など古曲の伝承によって無形文化財に指定されるほどの芸者も出ている。しかし、芸者の増加は、酌婦と区別しにくいような低い伎芸の、または売春専業に近い芸者を輩出させる結果となった。ゲイシャ・ガールとして国際的に有名となったのは東洋的売春婦とみられたからである。第二次世界大戦後の1947年(昭和22)以降は公安委員会の監督下に置かれ、地方自治体の風俗営業施行規則によって出先の範囲を規制されている。最近は、芸者の本来の伎芸であるべき古典的三味線音楽を演じられる芸者がしだいに減少していき、洋髪の増加にしたがって、着物の裾(すそ)を引いた「出(で)」の衣装を着る約束も崩れるなど、かなりの変化が現れている。
[原島陽一]
芸者は、芸妓置屋に籍を置いて所属営業地内の待合・料理屋・旅館などをおもな出先とし、出先への出勤、勘定には検番の周旋を受ける。芸妓置屋との雇用形態は、前借金による年季奉公形式の一種の身売りが多く、10歳ぐらいから雑用を働きながら基礎伎芸を習得して半玉(はんぎょく)を経て芸者となる仕込みの形態はその典型であったが、現在は児童福祉法などの関係で認められない。稼ぎ高の配分比率によって、丸抱え、七三、分け、逆七などの契約があるが、この場合にも前借金を負うことが多い。また、配分の対象となる稼ぎ高(花代や祝儀など)の区分や生活費の負担割合などは場合によって異なり、しかも主要収入の花代の計算が複雑であって、その清算はわかりにくい。なお雇用契約でない看板借り(看板料という一定の権利金を置屋に支払う)と、少数の自前(じまえ)(芸者が置屋を兼ねる)とがあり、最近は置屋に同居しない通勤芸者もある。
[原島陽一]
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…京阪の花柳界にいる年少妓(ぎ)のこと。11~16歳の芸者(芸子と呼ぶ)修業中の少女で,宴席に出て接客する。宴席では三味線をひかずに舞を主とするのは東京などの雛妓(おしやく)と同じだが,舞妓は下方(したかた)(鼓などの伴奏)をも受けもつ。…
…近世では広く演劇における演技者の意)に対し役者と称するころには,原義の〈役の者〉の意はうすれてしまっている。歌舞伎では一時期〈役者〉と〈芸者〉を両用する。その違いを次のごとく説くものもある。…
※「芸者」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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