江戸時代に盛行した庶民的な絵画。江戸の地を中心に発達し、別に江戸絵ともいう。絵画様式の源流は遠く大和絵(やまとえ)につながり、直接には近世初期風俗画を母胎としている。町人の絵画として、武家の支持した漢画系の狩野(かのう)派とは対立するが、様式の創造的な展開のために、その狩野派をはじめ土佐派、洋画派、写生画派など他派の絵画傾向を積極的に吸収消化し、総合していった。安価で良質な絵画を広く大衆の手に広めるために、表現形式としては木版画を主としたが、同時に肉筆画も制作しており、肉筆画専門の浮世絵師もいた。浮世絵という新造語が定着し始めるのは天和(てんな)年間(1681~1684)のころである。浮世の絵といわれたその浮世ということばには、彼岸ならぬ現世、過去でも未来でもない現在、そして好色の気味の濃い俗世間という多重の語義が込められており、したがって浮世絵の扱う主題は、当世流行の最先端の社会風俗、それも幕府から悪所とされた遊里や芝居町などの風俗が中心となった。浮世絵の歴史は以下のような3期に区分される。
(1)初期 明暦(めいれき)3年~宝暦(ほうれき)(1657~1764)。
(2)中期 明和(めいわ)~寛政(かんせい)(1764~1801)。
(3)後期 享和(きょうわ)~慶応(けいおう)(1801~1868)。
[小林 忠]
室町時代末期から桃山時代の風俗画は、貴賤(きせん)僧俗のあらゆる階層にわたって、その時様風俗を活写しようとするものであったが、江戸時代に入るとまもなく、悪所における享楽的な事象に作画の対象が限定されるようになる。そうした傾向を引き継いだ浮世絵は、当初から遊里風俗図と美人画、歌舞伎(かぶき)図と役者絵を2本の柱として展開していった。美人画は当初太夫(たゆう)など高位の遊女の画像にほぼ限られていたが、やがて岡(おか)場所の遊女や芸者、あるいは水茶屋の女、評判の町娘などまで扱うようになった。役者絵は歌舞伎役者の演技の態を理想化して描く姿絵に始まり、上半身や顔の部分に接近した似顔絵(にがおえ)を生むようになる。また役者絵との関連で人気の力士をモデルとした相撲絵(すもうえ)も行われた。以上のような人気者のブロマイドがわりの姿絵や悪所における遊楽風俗画のほかに、町人や武士の日常の生活風俗を描く作品が目だって多くなり、風俗画としての内容を豊富にしていく。人物画としてはほかに文学的主題に基づく作例も多く、日本や中国の詩歌や物語、あるいは故事などを直接題材としたり、間接的に見立てたりしている。ことに和漢の豪傑英雄を描く武者絵は時代を通じて好まれた。また、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)、読本(よみほん)や合巻(ごうかん)などの戯作(げさく)文学の挿絵も、浮世絵師の重要な仕事であった。
江戸の町人文化の成熟に伴って、後期には主題の分化が著しく進んだ。とくに際だって注目されるのは、他の画派にあってはつねに主要な関心事である風景画と花鳥画の両分野の、浮世絵における成立と流行である。風景画には、特定の土地の風光の美とそこに営まれる人々の暮らしぶりを紹介した名所絵(めいしょえ)と、旅する人の目で宿駅や道中の景観と風俗とを描いた道中絵(どうちゅうえ)の二様があり、いずれも人事と深くかかわりをもった人間くさい風景描写を特色としている。また花鳥画においても、日常身近な動植物を題材に選び、図上に俳句や和歌を賛するなどして、季節の詩感をしみじみと伝えた、親しみやすい表現がとられた。
浮世絵は純然たる絵画鑑賞の喜びを提供するばかりでなく、新鮮な情報をいち早く正確に伝達しようとするマスコミとしての機能も果たしたものである。有名人の死没の直後にその肖像を描き生前の事績や辞世の和歌や句を記して追悼の意を表した死絵(しにえ)、安政(あんせい)2年(1855)の大地震の直後に現れた鯰絵(なまずえ)、あるいは開港後の新開地横浜のようすを伝える横浜絵(よこはまえ)などは、そうしたニュース性を強く織り込んだ浮世絵版画の例である。明治期に入って一時期盛行した彩色摺(さいしきずり)の絵入り新聞、すなわち錦絵(にしきえ)新聞なども、浮世絵が本来備えていた時事報道の機能を時代の要請にこたえて一段と強化し、発揮させたものにほかならない。
[小林 忠]
浮世絵の主たる表現形式は終始木版画であり、肉筆画は従の関係にあった。浮世絵版画は、商業資本たる版元の企画の下に、絵師、彫師(ほりし)、摺師(すりし)三者の技術が動員された結果の産物であり、下絵を提供する絵師の表現にはおのずから相当の制約が課せられたものであった。
日本における木版画の歴史は古く、平安時代以降、印仏(いんぶつ)(仏像を彫った印版に墨を塗り紙に捺(お)す小型の版画)や摺仏(しゅうぶつ)(仏像を彫った版木の上に紙をのせ紙背から馬連(ばれん)で摺(す)る版画)がつくられ、室町時代には『融通念仏縁起』(1390~1391)のような木版絵巻や、『十二天像』ほかの木版仏画の制作が盛んに行われた。近世に入ると、そうした信仰上の要請や布教の便宜のために用いられるばかりでなく、純然たる鑑賞用としての版画が生まれることになる。その早い例が、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の後半から元和(げんな)年間(1615~1624)にかけて本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や角倉素庵(すみのくらそあん)ら京都の富裕な町衆が出版した版本、いわゆる「嵯峨本(さがぼん)」の挿絵である。『伊勢(いせ)物語』(1608刊)や『百人一首』の挿絵は、大和絵風の素朴な墨摺絵(すみずりえ)で、技術的にはなお未熟ながら、さすがに一流の町衆文化人により企画されただけに優雅な趣(おもむき)を備えるものであった。
一方、そうした古典文学を版刻普及しようとする豪華な嵯峨本とは別に、町の版元による大衆的な出版物である御伽草子(おとぎぞうし)や仮名草子の絵入り版本の刊行も、初め京都におこり、やがては大坂や江戸に広がりながら、しだいに盛んとなっていった。それらは墨摺の挿絵が普通であったが、丹(たん)と緑、黄などの数色を簡単に筆彩色(ふでざいしき)した「丹緑本(たんりょくぼん)」という形式も喜ばれ、文学と絵画の鑑賞を同時に楽しもうとする伝統が、大衆的なレベルで実現されるようになった。
[小林 忠]
江戸における大衆向け絵入り版本の需要は、初め上方(かみがた)版の輸入によって満たされていたが、明暦3年(1657)の大火(振袖(ふりそで)火事)以後の都市復興の活況のなかで、江戸の版元(地本問屋(じほんといや))による版行も盛んとなり、版下絵師(はんしたえし)も数多く育てられることとなった。その一人として成長した菱川師宣(ひしかわもろのぶ)(1694没)は、仮名草子や好色本を中心に優れた挿絵を提供し、本のなかに占める挿絵の比重を拡大していった。すなわち、文章は版画の上段5分の1ほどの狭い枠内に押し込められていき、下方の広いスペースには、彫刀が刻んだめりはりの強い描線による、明快でしかも優麗な風俗描写が展開されるようになる。かつての文が主で絵が従であった挿絵本(さしえぼん)から、文章と絵の比率が逆転した絵本形式へと進んだわけである。
文章表現の補完としての挿絵から、むしろ絵の説明に短文を添えさせるようになる絵本での版画は、ついには文章を不要とし、本の形式をも離れた純然たる鑑賞版画として独立するに至る。その最初期の例が、春画(しゅんが)をはじめ遊里案内などの風俗画(吉原の躰(てい))、あるいはよく知られた物語絵(大江山酒呑童子(しゅてんどうじ))など、内容の解説を要しない主題分野を扱った師宣作品で、それらは普通、本の見開き2ページ分に相当する横大判(約27~30センチメートル×36~43センチメートル)12図1組の組物(くみもの)として構成された。また墨摺絵を標準仕様としたが、工房所属の専門絵師がていねいに筆彩を加えた特別上製の彩色版画もつくられた。横長の画面でしかも組物という形式に絵本の名残(なごり)をとどめながら出発した浮世絵は、師宣とほぼ同世代の杉村治兵衛(じへえ)や後進の鳥居清信(きよのぶ)・清倍(きよます)らによって、1枚の版画のみで表現を完結する「一枚絵(いちまいえ)」に独立する。
[小林 忠]
一枚絵の独立とともにおこった形式上の変化は、サイズが大型化し、それに伴って描線と彩色が強化されたことである。版画表現の充実が期待されて、標準の版型は美濃紙(みのがみ)大判の全紙にさらに若干(全紙の3分の1ないし6分の1)を貼(は)り継いだ大々判(約55~65センチメートル×30~33センチメートル)にまで拡大された。描線は肥痩(ひそう)と強弱の変化に富むダイナミックなものとなり、賦彩(ふさい)は黄色を帯びた赤色の丹(たん)(鉛丹)を主調色として緑や黄を補助的に使うだけの、素人(しろうと)の手間仕事とおぼしきいかにも粗放な筆彩色が加えられた。この荒削りで強烈な印象を与える初期版画を「丹絵(たんえ)」というが、同時に同じ図様の版画が彩色のない墨摺絵のまま並製品として売られていた。この丹絵は、元禄(げんろく)から享保(きょうほう)初年(1690~1720ころ)にかけて行われた。
[小林 忠]
享保初年、丹にかわって主調色を紅(べに)とした「紅絵(べにえ)」が生まれ、寛保(かんぽう)年間(1741~1744)まで盛行した。紅は紅花の花弁からつくられた鮮紅色の絵の具で、植物性染料ならではの澄明感のある優しい色合いを特色とする。この軽快な色調にあわせて描線も繊細なものとなり、筆彩も細やかに施されることとなった。版型も細判(約33センチメートル×16センチメートル)が標準となり、小型化した。この紅絵は和泉屋(いずみや)権四郎という版元のくふうに始まる(本朝世事談綺(ほんちょうせじだんき))と伝えられる。また紅絵の一種で、別に区別して「漆絵(うるしえ)」とよばれる形式もある。これは、濃墨の部分に膠(にかわ)を多く加え、漆塗りのような光沢を与えたもので、さらに金砂子(きんすなご)の代用として真鍮(しんちゅう)を部分的に蒔(ま)くことが多い。これらはいずれも繊弱に流れがちな画面を強化するためのくふうであった。
[小林 忠]
以上の筆彩版画の歴史に終止符が打たれ、色摺の版画が行われ始めるのは、大田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))の『一話一言』によると、1744年(延享1)のことであった。色摺版画の試みはすでに享保年間(1716~1736)のころから、俳諧(はいかい)を趣味とする好事家たちにより、句集の表紙絵などの私的な出版物を場として行われていた。そしてついに元文(げんぶん)年間(1736~1741)には本格的な見当法による一枚絵の摺物を実現させ(虚実馬鹿語(きょじつばかばなし))、その技術がただちに借用されたのであった。遺品としては寛保4年(1744)の絵暦(えごよみ)(ボストン美術館蔵)と同年正月の中村座公演に取材する役者絵(ポートランド美術館蔵)が知られ、南畝の証言を裏づけている。この初期の紅と草(緑色)の2色を主調色とする寡色摺(かしょくずり)版画(末期には藍(あい)や黄などさらに2、3色が加わる)は「紅摺絵(べにずりえ)」とよばれ、宝暦年間(1751~1764)まで20年ほど盛行した。植物性染料の紅と草との清澄でさわやかな色感は筆彩の紅絵のそれを継承し、版型もなお細判を標準として守った。紅摺絵の二、三度摺の色摺では、なお象徴的な彩色にとどまり、背景をはじめ紙地のままに残される余白の部分も多かったが、個々の図様に応じた色面を画面の全面に充填(じゅうてん)する多色摺の版画は、1765年(明和2)にようやく実現する。同年におこった絵暦(えごよみ)交換会の流行が直接の契機となったもので、錦繍(きんしゅう)の華麗になぞらえて「錦絵(にしきえ)」の美称が命名されたのであった。当初は中判(約29センチメートル×22センチメートル)を標準のサイズとしたが、天明(てんめい)年間(1781~1789)以降は大判(約39センチメートル×27センチメートル)が一般となった。何度摺もの摺圧に耐えられるように、用紙も従来の美濃紙(みのがみ)などから厚手の奉書紙にかえられ、空摺(からずり)や、きめ出しなど、色をつけずに紙に凹凸をつける技法も活用された。寛政や天保(てんぽう)の改革時などにたびたび出版物の取締令が発せられぜいたくな多色摺が禁止されたが、私的な摺物や非合法出版の春画などでは終始、技術の粋が尽くされたのであった。
[小林 忠]
浮世絵の様式発展の歴史も、冒頭に示したような、初・中・後の3期に区分される。区分の時期については諸説あるが、ここでは次の3期とする。
(1)初期 版本挿絵から一枚絵が独立し、紅摺絵版行に至るまでの様式形成期。明暦3年の大火から宝暦に至る間(1657~1764)。
(2)中期 錦絵が創始され、美人画・役者絵を中心に浮世絵様式の古典的完成の実現期。明和から寛政年間まで(1764~1801)。
(3)後期 中期に達成された古典様式の形式化が進められ、同時に主題の多様化や出版部数の増大など、浮世絵の大衆化が進行した時期。享和以降の幕末期(1801~1868)。
なお、明治年間に入ってからも日清(にっしん)戦争(1894~1895)のころまでは浮世絵系画家の活躍が盛んで、さらに終末期を別に設ける必要があるかもしれない。
[小林 忠]
安房(あわ)国(千葉県)保田(ほた)出身の菱川師宣が万治(まんじ)・寛文(かんぶん)年間(1658~1673)に江戸に出て挿絵画家の群に加わり、遊里と芝居町を中心とする悪所の風俗を描いて評判を得、ついに鑑賞用の版画を独立させて浮世絵の基を開いた。そして天和3年(1683)刊『虚栗(みなしぐり)』では「菱川様(よう)の吾妻俤(あづまおもかげ)」とうたわれる独自の人物画(美人画)様式を確立、版画のみならず肉筆画の量産にも力を尽くして、平民的な絵画を江戸の地に普及し、発展させた。師宣の没後は、菱川派の勢力が急激に衰え、元禄末年から享保初年にかけては鳥居派と懐月堂(かいげつどう)派が主力となって活躍した。鳥居派の初代清信と2代清倍(きよます)は、丹絵期の版画を場として当時「嬋娟画(せんけんが)」とよばれた役者絵と美人画の両分野に勇壮あるいは優麗な人物像を描き、懐月堂安度(あんど)とその門弟は肉筆画に豊満な姿態と豪奢(ごうしゃ)な着衣の立美人図を量産、闊達(かったつ)な時代精神を反映した。ことに江戸歌舞伎特有の荒事(あらごと)の演技を活写する鳥居派の「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあしみみずがき)」と称される描法は、役者絵独特の描法として現代に至るまで踏襲されている。
享保年間以降の18世紀前半、紅絵、漆絵期は、奥村政信(まさのぶ)が版画の、宮川長春(ちょうしゅん)が肉筆画のそれぞれ中心画家として活躍した。ともに、描写は繊細の度を加え、詩的(文学的)情趣を伝えることに意が注がれるようになってくる。また政信は、自ら版元奥村屋を経営したように、企画力と実行力に富み、版画表現の新機軸を次々と打ち出し、長期不況の時期にあってよく浮世絵の活況を持続させた。たとえば、西洋画の透視遠近法をいち早く取り入れて「浮絵(うきえ)」という新しい分野を開発したり、画面の比率が極端に縦に長い「柱絵(はしらえ)」とか、3図分の細判を横につなげて一連とする三幅対物(さんぷくついもの)などを考案、流行させた。その弟子の奥村利信(としのぶ)、あるいは西村重長(しげなが)が政信と並行して活躍、ほかに鳥居派様式を形成化させた2代清信、2代清倍らの役者絵が一般の支持を集めて多産された。長春の肉筆画は、美人立姿の掛幅画にとどまらず、画巻や屏風(びょうぶ)に細やかな観察を行き届かせた風俗描写を展開、人物の美容と衣装の美とを尽くし、季節の情感をしみじみと盛る浮世絵肉筆画のよき範例を示した。この派の流れは孫弟子の勝川春章(かつかわしゅんしょう)、さらには春章の弟子の葛飾北斎(かつしかほくさい)へと受け継がれ、宮川、勝川、葛飾派という浮世絵肉筆画の本流を形成することになる。
紅摺絵期の宝暦年間は、美人画の石川豊信(とよのぶ)、役者絵の鳥居清満(きよみつ)が全盛で、俳趣の濃い詩的な風俗表現が好まれた。京都の風俗画家西川祐信(すけのぶ)の作風が慕われ、その影響が明らかに認められるようになるのもこのころからである。
[小林 忠]
1765年の錦絵の創始は、その発端となった絵暦交換会で中心的な働きをした鈴木春信(はるのぶ)を、一躍浮世絵界随一の人気絵師に仕立て上げた。春信は中間色や不透明な絵の具を多用し、安定感のある配色に絶妙の感覚を発揮した色彩画家であった。そして人形のように無表情な細腰の優しい男女を主人公として、古典和歌の詩意を時様の風俗の内にやつし、あるいは伝統的主題を平俗に見立てるなどしながら、浪漫(ろうまん)的情調の細やかな風俗表現に一風を開いた。春信画の夢幻的虚構性は、安永(あんえい)年間(1772~1781)に全盛の礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)がしだいに払拭(ふっしょく)し、天明年間(1781~1789)の鳥居清長(きよなが)に至って、浮世絵美人は現実的な背景のなかに解放されることになる。清長の美人画像は八頭身の理想的なプロポーションをとらされ、大判二枚続(つづき)、三枚続の大画面に、安定感のある群像として構成されるようになる。寛政年間(1789~1801)には喜多川歌麿(うたまろ)が、評判の遊女や町娘、あるいは身分、性状を特定された女性の上半身に視線を近づけ、個性的な美貌(びぼう)のきめ細かな描写や、微妙な心理や感情の表現に新風を開いている。浮世絵美人画は、これら春信、清長、歌麿の3巨匠によって成熟の頂点に達した感があり、その余の画家は三者の個性的な様式にわずかな変容を加えたにすぎない。たとえば、春信様式に倣った鈴木春重(はるしげ)(司馬江漢(しばこうかん))、清長様式を慕った窪俊満(くぼしゅんまん)、鳥文斎(ちょうぶんさい)(細田)栄之(えいし)、勝川春潮(しゅんちょう)、歌麿様式を追った栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)などの諸家が並行して活躍をみせた。
一方、役者絵の方面では、鳥居派の様式的描写が古様なものとして嫌われ、かわって似顔絵の風が盛んとなってくる。その端緒は明和7年(1770)刊の一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう)・勝川春章合筆になる『絵本舞台扇(ぶたいおうぎ)』がつくり、安永から天明年間にかけて、ことに春章とその一門(勝川春英(しゅんえい)や春好(しゅんこう)ら)を中心に役者絵の写実性が高められていった。そして春章没後2年目の1794年(寛政6)正月から歌川豊国(とよくに)が『役者舞台之姿絵』と題する全身像のシリーズを、5月からは東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が雲母摺大首絵(きらずりおおくびえ)の連作をそれぞれ発表、華々しくデビューした。似顔表現を理想化の装いの内にくるみ込んだ豊国の役者絵は大衆的な支持を得るが、残酷なまでに実像の印象をリアルに伝えた写楽画は受け入れられず、翌年早々にはこの天才絵師の作画が中絶されてしまう。役者絵も、写楽と豊国が活躍した寛政年間に、その古典的な完成の域にまで到達したものである。
ほかにこの時期の注目すべき成果は、歌川派の開祖の豊春(とよはる)による浮絵である。政信らによる前期の浮絵よりも、いっそう西洋画の遠近表現を正しく理解し、江戸の名所の自然景を現実感豊かに表した豊春の浮絵は、人々を合理的な視覚の世界に慣れさせ、浮世絵の風景表現を大いに前進させたものである。
[小林 忠]
中期において完成の域に達した美人画や役者絵は、相変わらず浮世絵界の中心的な関心事であり続けたが、様式的には生新な展開をみせることはなく、爛熟(らんじゅく)退廃の度を深めるばかりであった。美人画は、豊国、国貞(くにさだ)(3代豊国)らの歌川派や渓斎(けいさい)(菊川)英泉(えいせん)らが活躍、時代が下るにつれて短躯(たんく)で猪首(いくび)、猫背(ねこぜ)の、濃艶(のうえん)にすぎる美人画像が標準となっていった。役者絵においても歌川派が全盛で、おおぎょうに誇張された似顔表現がもてはやされ、錦絵ばかりでなく絵本にも役者絵仕立(じたて)が流行した。
様式展開に行き詰まりをみせた美人画、役者絵にかわって新しく開かれた分野に風景画と花鳥画、それに武者絵や戯画、さらには横浜絵などの時事報道画があった。風景画は、歌川派全盛の時流に英泉とともに抵抗した巨匠葛飾北斎が、洋風表現を積極的に取り入れてその端緒を開き、天保初年(1831~1833ころ)に発表した『冨嶽(ふがく)三十六景』の成功により定着させた。1833年(天保4)には彼を追うように歌川(安藤)広重(ひろしげ)が『東海道五拾三次』(保永堂(ほうえいどう)版)を出し、これ以後しばらく両者の風景画競作時代が続く。両者の作風は対照的に異なり、北斎の造形性を最優先させた厳しい景観と違って、広重の風景画は現実の自然に近く詩的な情趣が横溢(おういつ)していて親しみやすい。北斎と広重は花鳥画にも妍(けん)を競い合ったが、そこでも風景画と同様の作風の差がみられる。
勇壮な武者絵や風刺と滑稽(こっけい)のユーモアを盛る戯画は、歌川国芳(くによし)の独壇場であった。彼はまた西洋画法にも明るく、風景画にも異彩を放っている。国貞、国芳、広重らの弟子(貞秀(さだひで)、芳員(よしかず)、2代広重)は、1859年(安政6)に開港の新都市横浜に洋風の文物、風俗を取材して、「横浜絵」と称する一分野を開拓、新奇な題材とともに洋風表現や鮮やかな西洋絵の具を多用するなどして、錦絵の面目を一新させた。また、最幕末には、混乱した世相と荒廃した人心を反映するような月岡芳年(つきおかよしとし)らの「血みどろ絵」も出現、浮世絵自体の末期的現象を露呈してみせた。
[小林 忠]
浮世絵は江戸特産の民俗的な絵画、いわゆる民画であり、大津追分の肉筆の戯画「大津絵(おおつえ)」や、長崎の異国風俗を扱った版画「長崎絵(ながさきえ)」、大坂や京都の役者絵を主体とした版画「上方絵(かみがたえ)」などと同類のものに違いない。しかし、他の土地の民画がいずれも、扱う主題の範囲を特定し、様式の展開も微弱な範囲にとどまったのに反して、浮世絵は、比較を絶するほどに多彩で豊かな発展を長期にわたって継続させている。そして市場を全国的に広げることになる19世紀以降には、各地に直接的な影響が及び、東北のねぶた絵や凧絵(たこえ)、あるいは土佐の絵金(えきん)(絵師金蔵)の台提灯絵(だいちょうちんえ)など、土着の民衆のたくましいエネルギーを盛り込んだ新たな民画を創生させることになる。
また、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてヨーロッパやアメリカでジャポニズム(日本趣味)の流行がおこり、その波の高まりのなかで浮世絵の芸術的価値が高く評価された。そのころ欧化主義全盛の日本では逆に関心が離れており、明治期を通じて無数の浮世絵版画が海外へと流出していった。それらの版画から直接刺激を受けたのは、画家ばかりでなく文学者や音楽家、工芸意匠家など広範な層にまで及び、印象主義、アール・ヌーボーなど、西洋近代の芸術運動に大きな影響を与えている。日本における浮世絵再評価の動きも、こうした欧米の認識に教えられた結果のものであった。
[小林 忠]
『高橋誠一郎著『江戸の浮世絵師』(1966・平凡社)』▽『近藤市太郎著『浮世絵』(1966・至文堂・日本歴史新書)』▽『菊地貞夫著『原色日本の美術17 浮世絵』(1968・小学館)』▽『山根有三他著『原色日本の美術24 風俗画と浮世絵師』(1971・小学館)』▽『小林忠著『日本美術全集22 風俗画と浮世絵』(1979・学習研究社)』▽『『浮世絵聚花』16巻・補巻2(1978~1985・小学館)』
江戸時代に盛行した庶民的な絵画。江戸を中心に発達し,江戸絵ともいう。絵画様式の源流は遠く大和絵につながり,直接的には近世初期風俗画を母胎としている。町人の絵画として,武家の支持した漢画系の狩野派とは対立するが,様式の創造的な展開のために,その狩野派をはじめ土佐派,洋画派,写生画派など他派の絵画傾向を積極的に吸収消化し,総合していった。安価で良質な絵画を広く大衆の手に届けるために,表現形式としては木版画を主としたが,同時に肉筆画も制作し,肉筆画専門の浮世絵師もいた。〈浮世絵〉という新造語が定着し始めるのは,版本の挿絵から一枚絵の版画が独立した直後の天和年間(1681-84)のころである。〈浮世〉という言葉には,彼岸ならぬ現世,過去でも未来でもない現在,そして好色の気味の濃い俗世間という多重の語義が込められており,したがって浮世絵の扱う主題は,当世流行の社会風俗,それも遊里や芝居町など悪所の風俗が中心となった。浮世絵の全史は,(1)初期の明暦~宝暦年間(1655-1764),(2)中期の明和~寛政年間(1764-1801),(3)後期の享和~慶応年間(1801-68)の3期に大きく区分される。
室町末期から桃山時代の風俗画は,貴賤僧俗のあらゆる階層にわたって,その時様風俗を活写しようとするものであったが,江戸時代に入ると間もなく,悪所における享楽的な事象に作画の対象が限定されるようになる。そうした傾向を引きついだ浮世絵は,当初から遊里風俗図と美人画,歌舞伎図と役者絵を,2本の柱として展開していった。美人画は,当初は大夫など高位の遊女の画像にほぼ限られていたが,やがて岡場所の遊女や芸者,あるいは水茶屋の女,評判の町娘などまで扱うようになった。役者絵は舞台上の歌舞伎役者の演技の態を理想化して描く姿絵に始まり,上半身や顔の部分に接近した似顔絵を生むようになる。また,役者絵との関連で人気力士をモデルとした相撲絵も行われた。以上のような人気者のブロマイドがわりの姿絵や,悪所における遊楽風俗画のほかに,中期以降になると町人や武士の日常の生活風俗を描く作品がめだって多くなり,風俗画としての内容を豊富にしていく。人物画としてはほかに文学的主題にもとづく作例も多く,日本や中国の詩歌や物語,あるいは故事などを直接題材としたり,間接的に〈やつし〉,〈見立て〉たりしている。ことに,和漢の豪傑英雄を描く武者絵は時代を通じて好まれた。また当時流行の黄表紙や洒落本,読本や合巻などの戯作文学の挿絵も,浮世絵師の重要な仕事であった。
江戸の町人文化の成熟にともなって,後期には主題の分化がいちじるしく進んだ。とくに際だって注目されるのは,他の画派にあってはつねに主要な関心事である風景画と花鳥画の両分野の,浮世絵における成立と流行である。風景画には,特定の土地の風光の美とそこに営まれる人々の暮しぶりを紹介しようとした名所絵と,旅する人の目で宿駅や道中の景観と風俗とを描いた道中絵の二様があり,いずれも人事と深くかかわりをもった人間臭い風景描写を特色としている。また花鳥画においても,日常身近な動植物を題材に選び,図上に俳句や和歌を讃するなどして季節の詩感をしみじみと伝えた,親しみやすい表現がとられた。
また浮世絵は純然たる絵画鑑賞の喜びを提供するばかりでなく,時事的な情報を伝達する機能も果たした。有名人の死没の直後にその肖像を描き,生前の事跡や辞世の和歌や句を記して追悼の意を表した死絵(しにえ),安政2年(1855)の大地震の直後に表れた鯰絵(なまずえ),あるいは開港後の新開地横浜の様子を伝える横浜絵などは,そうしたニュース性を強く織り込んだ浮世絵版画の例である。明治年間に入って一時期盛行した彩色摺の絵入り新聞すなわち〈錦絵新聞〉なども,浮世絵が本来備えていた時事報道の機能を,時代の要請に応えて一段と強化し,発揮させたものにほかならなかった。
浮世絵の主たる表現形式は終始木版画であり,肉筆画は従の関係にあった。浮世絵版画は,商業資本である版元の企画の下に絵師,彫師,摺師3者の技術が動員された結果の産物であり,下絵を提供する絵師の表現には,おのずから相当の制約が課せられたものであった。
日本における木版画の歴史は古い。平安時代以降,印仏や摺仏(すりぼとけ)が作られ,室町時代には《融通念仏縁起》のような木版絵巻や《十二天像》ほかの木版仏画の制作がさかんに行われた。近世に入ると,そうした信仰上の要請や布教の便宜のために用いられるばかりでなく,純然たる鑑賞用としての版画が生まれることになる。その早い例が,慶長年間(1596-1615)の後半から元和年間(1615-24)にかけて本阿弥光悦や角倉素庵ら京都の町衆が出版した版本,いわゆる〈嵯峨本〉の挿絵である。《伊勢物語》(1608刊)や《百人一首》(慶長年間刊)の挿絵は,大和絵風の素朴な墨摺絵で,技術的にはなお未熟ながら,一流の町衆文化人により企画されただけに優雅な趣を備えるものであった。一方,そうした古典文学を版刻普及しようとする豪華な嵯峨本とは別に,町の版元による大衆的な読み物,御伽草子や仮名草子の絵入り版本の刊行も,はじめ京都におこり,やがては大坂や江戸にひろがりながら,しだいにさかんとなっていった。それらは墨摺の挿絵が普通であったが,丹と緑,黄などの数色でかんたんに筆彩色された〈丹緑本〉という形式も喜ばれた。そして,文学と絵画の鑑賞を同時に楽しもうとする享受の仕方が,大衆的な次元でも実現されるようになった。
江戸における大衆向け絵入り版本の需要は,はじめもっぱら上方版の輸入によってみたされていたが,明暦3年(1657)の大火以後の都市復興の活況の中で,江戸の版元(地本問屋)による版行もさかんとなり,版下絵師も数多く育てられることとなった。その一人として成長した菱川師宣は,仮名草子や好色本を中心にすぐれた挿絵を提供し,本の中に占める挿絵の比重を拡大していった。すなわち,文章は版面の上段5分の1ほどの狭い枠内におしこめられていき,下方の広いスペースには,めりはりの強い描線による明快で優麗な風俗描写が展開されるようになる。文が主で絵が従であった挿絵本から,文章と絵の比率が逆転した絵本形式へと進んだわけである。その典型的な例が井原西鶴の浮世草子《好色一代男》を絵本化した《大和のこんげん》およびその続編の《好色世話絵づくし》(ともに師宣画,1686)である。こうした絵本における版画は,ついには文章を不要とし本の形式とも離れた純然たる鑑賞版画として独立するにいたる。その最初期の例が,春画をはじめ遊里案内などの風俗画(例,《吉原の躰》)あるいは人口に膾炙(かいしや)した物語絵(例,《大江山酒呑童子》)など,必ずしも内容の解説を要しない主題を扱った師宣作品で,それらは普通,本の見開き2ページ分に相当する横大判(約27~30cm×36~46cm)12図一組の組物として構成された。また,墨摺絵を標準仕様としたが,工房所属の専門絵師が丁寧に筆彩を加えた特別上製の彩色版画も作られた。横長の画面でしかも十数枚の組物という形式に,なお,木版絵本のころの名残を濃厚にとどめながら出発した浮世絵版画においては,師宣最晩年の元禄年間(1688-1704),彼とほぼ同世代の杉村治兵衛や後進の鳥居清信,清倍(きよます)らによって,一枚の版画単独で表現を完結させる〈一枚絵〉が成立した。
一枚絵の独立とともに起こった形式上の変化は,サイズの大型化とそれにともなう描線と彩色の強化である。版画表現の充実が期待されて,標準の判型は美濃紙大判の全紙にさらに若干(全紙の1/3~1/6)を貼り継いだ大々判(約30~33cm×55~65cm)にまで拡大された。描線は肥瘦と強弱の変化に富むダイナミックなものとなり,賦彩は黄色を帯びた赤色の丹(たん)(鉛丹)を主調色として緑や黄を補助的に使うだけの,素人の手間仕事とおぼしきいかにも粗放な筆彩色が加えられた。この荒削りで強烈な印象を与える初期版画を〈丹絵(たんえ)〉というが,同時に同じ版画が,彩色のない墨摺絵のまま,並製として売られた。丹絵は元禄から享保(1716-36)初年にかけて行われた。
享保初年は丹に代わって主調色を紅とした〈紅絵(べにえ)〉が生まれ,寛保年間(1741-44)まで盛行した。紅は紅花の花弁から作られた鮮紅色の絵具で,澄明感のある優しい色合を特色とする。この軽快な色調に合わせて描線も繊細なものとなり,筆彩もこまやかにほどこされることとなった。判型も細判(約33cm×15~16cm)が標準となり,小型化した。この紅絵は和泉屋権四郎という版元の工夫に始まると伝えられる(《本朝世事談綺》)。また紅絵の一種で,別に区別して〈漆絵〉と呼ばれる形式もある。これは,濃墨の部分に膠(にかわ)を多く加え,漆のような光沢を与えたもので,さらに金砂子の代用として真鍮(しんちゆう)粉を部分的に蒔(ま)くことが多い。繊弱に流れがちな画面を強化するための工夫であった。
以上の筆彩版画の歴史に終止符が打たれ,色摺の版画が行われ始めるのは,延享1年(1744)のことであった(大田南畝《一話一言》)。色摺版画の試みはすでに享保年間のころから俳諧を趣味とする好事家たちにより,句集の表紙絵などの私的な出版物を場として行われていた。そしてついに元文年間(1736-41)には,本格的な見当法による一枚絵の摺物を実現し(《虚実馬鹿語》),その技術がただちに浮世絵界に借用されたのであった。遺品としては寛保4年(1744)の絵暦(ボストン美術館)と同年正月の中村座公演に取材する役者絵(ポートランド美術館)が知られ,南畝の証言を裏づけている。この初期の紅と緑(草色)の2色を主調色とする寡色摺版画(末期には藍や黄などさらに2,3色が加わる)は〈紅摺絵(べにずりえ)〉と呼ばれ,宝暦年間(1751-64)まで20年ほど盛行した。植物性染料の紅と草色との清澄でさわやかな色感は筆彩の紅絵のそれを継承し,判型も細判を標準とした。
紅摺絵の二,三度摺の色摺では,なお象徴的な彩色にとどまり,背景をはじめ紙地のままに残される余白の部分も多かったが,個々の図様に応じた色面を画面の全体に充塡する多色摺の版画が,1765年(明和2)にようやく実現する。同年におこった絵暦交換会の流行が直接の契機となったもので,錦繡の華麗になぞらえて〈錦絵〉の美称がつけられた。当初は中判(約29cm×22cm)を標準サイズとしたが,天明年間(1781-89)以降は大判(大錦,約39cm×26~27cm)が一般となった。何度摺もの摺圧に耐えられるように,用紙も従来の美濃紙などから厚手の奉書紙に代えられ,空摺やきめ出しなど色をつけずに紙に凹凸をつける技法も活用された。寛政や天保の改革時にたびたび出版物の取締令が発せられ,ぜいたくな多色摺が禁止されたが,私的な摺物や非合法出版の春画などでは,終始,技術の粋が尽くされた。
様式発展の歴史も冒頭に示した3期に区分される。区分の時期については諸説あるが,ここでは初期を,版本挿絵から一枚絵が独立し紅摺絵版行にいたるまでの様式形成期,すなわち明暦3年の大火から宝暦にいたる間(1657-1764)とし,中期を,錦絵が創始されて美人画や役者絵を中心に浮世絵様式の古典的完成が実現する,明和から寛政年間まで(1764-1801),後期を,中期に達成した古典様式のマニエリスム化(形式化)が進み,同時に主題の多様化や出版部数の増大など浮世絵の大衆化が進行した享和年間以降の幕末期(1801-68)とする。なお,明治に入ってからも,日清戦争のころまでは浮世絵系画家の活躍がさかんで,終末期を別に設ける要があるかも知れない。
菱川師宣は万治・寛文年間(1658-73)に江戸に出て挿絵画家の群れに加わり,悪所の風俗を描いて評判を得,ついに鑑賞用の版画を独立させて浮世絵の基をひらいた。〈菱川様(よう)の吾妻俤(おもかげ)〉(《虚栗》)とうたわれる独自の人物画(美人画)様式を確立,版画のみならず肉筆画の量産にも力を尽くして,平民的な絵画を江戸の地に普及し,発展させた。師宣の没後は菱川派の勢力が急激に衰え,元禄末年から享保初年にかけて(18世紀初期)は鳥居派と懐月堂派が主力となって活躍した。鳥居派の初代清信と2代清倍は,丹絵期の版画を場として役者絵と美人画(このころ〈嬋娟(せんけん)画〉といった)の両分野に勇壮あるいは優麗な人物像を描いた。懐月堂安度とその門弟は肉筆画に豊満な姿態と豪奢な着衣の立美人図を量産し,闊達(かつたつ)な時代精神を反映した。ことに江戸歌舞伎特有の荒事の演技を活写する鳥居派の〈瓢簞足蚯蚓描(ひようたんあしみみずがき)〉と称される描法は,役者絵独特の描法として現代にまで踏襲されている。享保年間以降の18世紀前半,紅絵・漆絵期には奥村政信が版画の,宮川長春が肉筆画の中心画家として活躍した。ともに描写は繊細の度を加え,詩的(文学的)情趣を伝えることに意が注がれるようになってくる。また政信は,みずから版元奥村屋を経営したように,企画力と実行力に富み,版画表現の新機軸をつぎつぎと打ち出し,長期不況の時期にあってよく浮世絵の活況を持続させた。たとえば,西洋画の透視遠近法をいち早く取り入れて〈浮絵(うきえ)〉という新しいジャンルを開発したり,画面の比率が極端に縦に長い〈柱絵(はしらえ)〉とか,細判を3図分横につなげて一連とする三幅対物などを考案,流行させている。その弟子の利信(生没年不詳),あるいは西村重長が政信と並行して活躍,ほかに鳥居派様式を形式化させた2代清信,2代清倍の役者絵が一般の支持を集めて多産された。長春は美人立姿の掛幅画にとどまらず,画巻や屛風にこまやかな観察をいきとどかせた風俗描写を展開,人物と衣装,季節の情感を盛る浮世絵肉筆画の良き範例を示した。この派の流れは孫弟子の勝川春章,さらには春章の弟子の葛飾北斎へと受けつがれ,宮川・勝川・葛飾派という浮世絵肉筆画の主流を形成することになる。紅摺絵期の宝暦年間は,美人画の石川豊信,役者絵の鳥居清満(1735-85)が全盛で,俳趣の濃い詩的な風俗表現が好まれた。京都の風俗画家西川祐信の作風が慕われ,その影響が明らかに認められるようになるのも,このころからである。
1765年(明和2)の錦絵の創始は,その発端となった絵暦交換会で中心的な働きをした鈴木春信を,一躍浮世絵界随一の人気絵師に仕立て上げた。春信は,中間色や不透明な具入り(ぐいり)(胡粉を混ぜた)絵具を多用し,安定感のある配色に絶妙の感覚を発揮し,錦絵時代にふさわしい生来の色彩画家であった。そして,人形のように無表情な細腰の優しい男女を主人公として,古典和歌の詩意を時様の風俗の内にやつし,あるいは伝統的主題を平俗に見立てるなどしながら,浪漫的情調のこまやかな風俗表現に一風を開いている。春信画の夢幻的な虚構性は,礒(磯)田湖竜斎がしだいに払拭し,天明年間の鳥居清長にいたって,浮世絵美人は現実的な背景の中に解放されることになる。清長の美人画像は八頭身の理想的なプロポーションをとり,大判二枚続,三枚続の大画面に展開され,開放的な野外風景の中で,群像として知的に構成される。ついで寛政年間(1789-1801)には喜多川歌麿が,現実の遊女や町娘,あるいは身分,性状を特定された女性を半身像(大首絵(おおくびえ))に描き,微妙な心理や感情の表現に新風を開いている。浮世絵美人画は,これら春信,清長,歌麿の3巨匠によって成熟の頂点に達した感があり,その余の画家は3者の個性的な様式にわずかな変容を加えたにすぎない。たとえば,春信様式にならった鈴木春重(司馬江漢),清長様式を慕った窪俊満,細田(鳥文斎)栄之,勝川春潮(生没年不詳),歌麿様式を追った栄松斎長喜(生没年不詳)などの諸家が並行して活躍した。一方,役者絵の方面では,鳥居派の概念的描写が古様なものとして嫌われ,代わって似顔絵の風がさかんとなってくる。その端緒は1770年刊の一筆斎文調・勝川春章合筆になる《絵本舞台扇》である。つづく安永(1772-81)から天明年間にかけて,ことに春章とその一門である勝川春英や春好らを中心に役者絵の写実性が高められていった。そして春章没後2年目の1794年(寛政6)から歌川豊国が〈役者舞台之姿絵〉と題する全身像のシリーズを,同年5月からは東洲斎写楽が雲母摺(きらずり)大首絵の連作をそれぞれ発表,華々しくデビューした。似顔表現を理想化の装いの内にくるみこんだ豊国の役者絵は大衆的な支持を得るが,残酷なまでに実像の印象を伝えた写楽画は,話題となったが一般には受け入れられず,翌年早々にはこの天才絵師の作画は中絶されてしまう。役者絵も写楽と豊国が活躍した寛政年間にその古典的な完成をみるといえよう。ほかにこの時期の注目すべき成果は,歌川派の開祖の豊春(1735-1814)による浮絵である。政信らによる前期の浮絵よりいっそう西洋画の遠近表現を正しく理解し,江戸の名所を現実感豊かに表した豊春の浮絵は,人々を合理的な視覚の世界に慣れさせ,浮世絵の風景表現を大いに前進させた。
中期において完成の域に達した美人画や役者絵は,相変わらず浮世絵界の中心的な関心事であり続けたが,様式的には生新な展開をみせることはなく,爛熟退廃の度を深めるばかりであった。美人画では,豊国,国貞(3代豊国)らの歌川派や渓斎英泉らが活躍し,時代が下るにつれて短軀で猪首・猫背の,濃艶にすぎる美人画像が標準となっていった。役者絵においても歌川派が全盛で,大仰に誇張された似顔表現がもてはやされ,錦絵ばかりでなく絵本にも役者絵仕立てが流行した。様式展開に行きづまりを見せた美人画,役者絵に代わって新しく開かれたジャンルは風景画と花鳥画であり,武者絵や戯画,横浜絵などの時事報道画であった。風景画は,歌川派全盛の時流に英泉とともに抵抗した葛飾北斎が,洋風表現を積極的に取り入れてその端緒をひらき,1831-33年(天保2-4)ころに発表した《富嶽三十六景》の成功によって定着させた。33年には後を追うように歌川(安藤)広重が《東海道五十三次》を出し,これ以後しばらく両者の風景画競作時代がつづく。両者の作風は対照的で,北斎の造形的配慮を優先させた厳しい景観と異なり,広重の風景画は現実の自然に近く,詩的な情趣が横溢して親しみやすい。北斎と広重は花鳥画にも姸(けん)を競ったが,風景画と同様の作風の差がある。勇壮な武者絵や諷刺と滑稽のユーモアを盛る戯画は,歌川国芳の独壇場であった。彼は西洋画法にも明るく,風景画にも異彩を放っている。国貞,国芳,広重らの弟子(貞秀,芳員,2代広重ら)は,1859年(安政6)に開港の新都市横浜に西洋風の文物,風俗を取材して,〈横浜絵〉と称する一ジャンルを開拓,新奇な題材とともに洋風表現や鮮やかな西洋絵具を多用するなどして,錦絵の面目を一新させた。また最幕末には,混乱した世相と荒廃した人心を反映するような月岡芳年らの〈血みどろ絵〉も出現し,浮世絵自体の末期的現象を露呈してみせた。
浮世絵は江戸特産の民俗的な絵画,いわゆる民画であり,大津追分の肉筆の戯画〈大津絵〉や,長崎の異国風俗を扱った版画〈長崎絵〉,大坂や京都の役者絵を主体とした版画〈上方絵〉などと同類のものに違いない。しかし,他の土地の民画がいずれも扱う主題の範囲を特定し,様式の展開も微弱な範囲にとどまったのに反して,浮世絵は比較を絶するほどに多彩で豊かな発展を長期にわたって継続させている。そして市場を全国的に広げることになる19世紀には,各地に直接的な影響が及び,東北のねぶた絵や凧絵(たこえ),あるいは土佐の絵金(えきん)の台提灯絵など,土着の民衆のたくましいエネルギーを盛り込んだ新たな民画を創生させることになる。
明治維新後急速に関心が薄れてしまった日本から,数多くの浮世絵が海外へ流出した。しかし,19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてヨーロッパやアメリカでその芸術的価値が高く評価され,浮世絵は印象主義やアール・ヌーボーなど西洋近代の芸術運動に大きな影響を与えている。日本における浮世絵再評価の動きもこうした欧米の認識に教えられた結果であった。
執筆者:小林 忠
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近世の絵画様式の一つ。浮世すなわち現世謳歌の風俗を画題とした。肉筆画と版画があり,遊女や評判美人を描いた美人画,芝居絵・役者絵・相撲絵,名所絵・風景画・花鳥画,武者絵,物語絵など幅広い。見立(みたて)や略(やつし)(姿をかえる)の表現様式も重要な要素である。肉筆画は近世初期の風俗画の系譜を引き,菱川師宣(もろのぶ)・西川祐信(すけのぶ)・懐月堂安度(やすのぶ)・宮川長春などが輩出した。浮世絵版画は,量産化にともない絵画の大衆化を促し,墨摺(すみずり)から多色筆彩の時代をへて錦絵とよばれる木版多色摺が明和頃に考案され,黄金期を迎えた。絵師には喜多川歌麿・東洲斎写楽(しゃらく)・葛飾北斎らが出た。版本の挿絵も多く,私家版の摺物も出版された。西洋画の遠近法の影響をうけた浮絵(うきえ)などもある一方で,浮世絵がヨーロッパの印象派に与えた影響も見逃せない。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
…よって従来考えられていたように,物にはそれぞれ固有色(ローカル・カラーlocal colour)があるという考えは打破され,光が物質に反射してそれが目にはいるときに色が見えるということが,体験的に理解されていった。(2)構図法 構図法においては,彼らは日本の浮世絵と写真から大きな影響を受けた。浮世絵の中にはすでに西洋の線遠近法による空間表現の技法がはいりこんではいたが,極端な俯瞰構図,唐突な画面の切り方,前景に大きなものを配して中景を抜き突然遠景をつなげるやり方,物のボリュームを無視し輪郭で切り抜いた平板な形態など,非ヨーロッパ的な対象のとらえ方がふんだんに盛り込まれていた。…
…風俗画は彼らの最も多く手がけた画題であり,そこには時代の現世享楽の気風を反映して遊里や芝居小屋の情景が好んで描かれた。それは,のちに発展する浮世絵の母型ともいうべきものであるが,なかに《彦根屛風》のように正系画師のひそかな仕事も混じっている。これら寛永期(1624‐44)風俗画に見られる生命力と退廃との入りまじった独特の雰囲気もまた,武功による昇進の望みを失ったこの時期の武士階級の生活感情とつながるものだろう。…
…アントワープのプランタン家が代表的な企業例である。日本でも江戸時代の浮世絵版画においては,主題選択は大方は版元に優先権があったと思われるし,その絵画的処理についても,必ずしも画家が自主的にそのすべてを決定してはいない(版下画家というほうが理解しやすい)。細部における描写や彩色は彫師や刷師の微妙な協力を要した。…
…江戸初期の画家。浮世絵の確立者で,菱川派の祖。安房国保田村(現,千葉県鋸南町)の繡箔(ぬいはく)師の子として生まれ,若くして江戸に出て画技を学んだ。…
…スペインではゴヤが,1770~80年代に王立タピスリー工場のために精力的に下絵(カルトン)を制作したが,《瀬戸物売り》《凧上げ》《洗濯女たち》など,主として民衆の生活や娯楽に題材を求めた。 19世紀,とくにマネ,ドガ,ルノアールを中心とする印象主義の画家たちは,日本の浮世絵版画の描写する庶民の日常的動作から新鮮な刺激をうけた(喜多川歌麿の《山姥と金時》とドガの《髪を梳く女》など)。しかし風俗を描く彼らの直接の関心は主題ではなく,光と色彩による視覚のリアリズムであった。…
※「浮世絵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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