河野村(読み)かわのむら

日本歴史地名大系 「河野村」の解説

河野村
かわのむら

[現在地名]豊丘村河野

現豊丘村の北部。

嘉暦四年(一三二九)の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)の記事の中の伴野庄内「宇久津村」は河野村の誤写であろうと推定されている(豊丘村誌)

永享一二年(一四四〇)、小笠原政康が信濃の諸士を率いて結城の合戦に参戦した。その時の小笠原氏の手勢の中に「河野殿」の名がみえる(「結城陣番帳」笠系大成附録)

河野村
こうのむら

面積:五〇・一三平方キロ

南条郡の北西隅、西は日本海に面し、北は丹生郡越前えちぜん町、南は敦賀市に境し、北東は武生市、南東今庄いまじよう町に接する。南北約一三キロ、東西約七・五キロ。東側は山地が迫り、今庄町との境に最高峰のホノケ山(七三六・八メートル)がそびえ、河野川(全長一二キロ)が北東方に流れて日本海に注ぐ。海岸段丘の下と内陸部の谷間に集落が点在する。村の南部海岸近くから、北東に向けて国道八号が通る。

河野村
かわのむら

[現在地名]安城市河野町

東は下佐々木しもささき(現岡崎市)、南は村高むらだか村、西は川島かわしま村に隣する。天保郷帳の記載は「川野村」。古代志貴しき庄に属する。藩政期の支配は、寛永元年(一六二四)まで幕府領、次いで荒川出羽守領、貞享二年(一六八五)幕府領、元禄一〇年(一六九七)小笠原長門守領、明治二年(一八六九)静岡県。慶長九年(一六〇四)検地帳によると田畑はほぼ同じ割合で、貞享二年の高二二八石六斗七升。

河野村
がわのむら

[現在地名]見附市河野町

太田おおだ村の東、集落は稚児清水ちごしみず川右岸段丘上にある。正保国絵図に高五九石余、長岡藩領。正保二年(一六四五)の検地帳(明治大学刑事博物館蔵)では田五町五反・畑一一町一反余、名請人三七人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報