河野・河野道場跡(読み)かわの・かわのどうじようあと

日本歴史地名大系 「河野・河野道場跡」の解説

河野・河野道場跡
かわの・かわのどうじようあと

河野は現笠松かさまつ町東部から現岐南ぎなん町・川島かわしま町一帯をさしたとみられる地名で、古代の尾張葉栗はぐり河沼かわぬ(和名抄)に由来するといわれる。河野道場は、鎌倉時代に親鸞に帰依した河野四郎通勝(専称坊)が他の八名の面授の者とともに建立したと伝える道場。岐南町三宅みやけ木瀬きぜにあって木瀬道場・木瀬草庵ともよばれ、この門徒集団を河野門徒・河野九門徒とよぶ。

永禄九年(一五六六)閏八月一八日の斎藤家老臣連署書状写(中島文書)に「河表打渡、河野島へ執入候」とみえ、同一〇年稲葉山城落城後の六月一〇日、河野島のうち二〇貫文などが織田信長から佐々木平太らに給与された(「木下秀吉等連署充行状」兼松文書)。また同年一一月には河野のうち二〇貫文が矢野弥右衛門尉に、一〇貫文が兼松正吉扶助として与えられている(「織田信長朱印状」尊経閣文庫文書など)。天正一一年(一五八三)一月二二日には河野島の一千貫が加増分として織田信雄から坪内喜太郎に与えられた(「織田信雄判物」坪内文書)

河野門徒の実像は必ずしも明らかではないが、尾張・美濃の一向宗(浄土真宗)の教線拡大や門徒集団形成に大きな影響力をもった。葉栗郡を拠点とし、のち十八門徒として発展した。河野門徒は、嘉禎元年(一二三五)親鸞が関東より帰洛の途中、木瀬にとどまり念仏の教えを広めた時、親鸞に帰依したという伝承をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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