葉栗郡(読み)はぐりぐん

日本歴史地名大系 「葉栗郡」の解説

葉栗郡
はぐりぐん

面積:九・五〇平方キロ
木曾川きそがわ

県北西部を占め北・東・南は一宮市に接し、西は木曾川を隔てて岐阜県に接している。旧郡域は東は丹羽郡、南は中島郡、北は美濃国であったが、天正一四年(一五八六)の木曾川の大洪水で郡域は分断され、西北部六〇余ヵ村は美濃国羽栗はぐり郡となり行政上分離された。現岐阜県羽島はしま市と羽島郡の一部がそれである。また中島郡の北部が葉栗郡に編入されるなどかなりの変動があった。その後の郡域は天保郷帳によると総石高は一万三千九〇五石六斗一升五合で、村数四一ヵ村となっている。これは尾張八郡のうち高・村数ともに最も少ない郡である。「尾張名所図会」は、この郡について「当郡は国のうちの乾の極いぬいのはてなる地にて、東西は長く、南北は縮れり、「民部省図帳」に、葉栗郡行程東西二十余里、南北二十二里七十歩とあるは、古制の六町一里にてしるしたるなり。天正十(四カ)年北の方木曾川のあなた数十村を、美濃に附属せられし故、今の如くなれり(中略)。四至東は丹羽郡に隣り、南より西へまはり、中島郡に接し、北より乾へ廻りて木曾川を境とす。山なく平均にして田畠多き郡なり」と記している。

葉栗郡の村々は現在、江南市や一宮市に大部が合併したので、木曾川町のみが葉栗郡という一郡一町となった。この地域は毛織物生産の中小機業が密集しているが、しだいに化学繊維へと転換する工場が増加している。

〔原始〕

木曾川町の遺跡は大字門間かどま地内に多い。弥生時代中期にさかのぼる遺物もあるが、同後期から古墳時代前期の遺物の多いことは注目される。古墳時代後期から平安時代の遺物もまた出土しているが、なかに古墳時代の滑石製模造品や平安時代の陶塔・緑釉陶器がみられる。古墳は、南方に隣接する一宮市今伊勢いまいせ馬寄うまよせに現存するが、当町では確認されていない。

〔古代〕

葉栗郡の初見は養老四年(七二〇)で、貢進仕丁歴名帳(正倉院文書)に「生嶋勝建嶋年尾張国葉栗郡大沼郷(以下略)」とみえる。郡内の式内社は一〇座、すなわち穴太部神社・阿遅加神社若栗神社・黒田神社・大野神社・石作神社・宇夫那神社・川嶋神社・伊富利部神社・大毛神社がそれである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報