日本大百科全書(ニッポニカ) 「法正」の意味・わかりやすい解説
法正
ほうせい
(176―220)
中国、後漢(ごかん)末、劉備(りゅうび)の幕僚。字(あざな)は孝直(こうちょく)。扶風郿(ふふうび)県(陝西(せんせい)省眉(び)県)の人。同郷の孟達(もうたつ)とともに、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)に仕えたが、品行が悪いと誹謗(ひぼう)され、重く用いられなかった。そこで、張松(ちょうしょう)とともに、劉備を入蜀(しょく)させて劉璋にかわらせることを画策し、龐統(ほうとう)の死後は劉備の軍議にあずかって功績をあげた。法正は、蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)・揚武将軍(ようぶしょうぐん)に任ぜられると、権力をかさに着て、過去に恨みをもつ者を勝手に殺害した。これを諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))に上訴した者があったが、劉備が法正を寵愛(ちょうあい)していたために、諸葛亮は禁止することができなかった。劉備は、法正の寵用(ちょうよう)により、諸葛亮の権力を掣肘(せいちゅう)しようとしていたのである。217年、法正は、劉備に漢中(かんちゅう)への進攻を進言し、219年に、夏侯淵(かこうえん)を黄忠(こうちゅう)が討ち取ることで、漢中は平定された。劉備が漢中王となると、尚書令(しょうしょれい)・護軍将軍(ごぐんしょうぐん)に任命されたが、翌年病死した。
[渡邉義浩]
『小出文彦監修『三国志人物事典』(1999・新紀元社)』