日本歴史地名大系 「北相馬郡」の解説
北相馬郡
きたそうまぐん
県南端、利根川北岸に位置。東は
当郡は、古代から近代にかけて相馬郡の一部、筑波郡の一部からなるが、相馬の地名については、「下総旧事考」に「相馬ノ名義ハ狭沼ナルベシ。此地。衣川ノ末流。小貝川ニ合シ。今ノ利根川ト川瀬ヲ異ニシテ。立木村ノ北方ヲ迂回シテ。沼沢沮洳ノ地ナレバ。名付シナルベシ」、「利根川図志」には「相馬と命し名の所由を考ふるに、所の体淡海の中の一庭なれば
〔原始・古代〕
海進期には当郡一帯は海に囲まれており、現利根町には貝塚が数基存在し、
奈良時代になると当地も完全に大和朝廷の支配下に置かれ、平安時代に入り、貞観六年(八六四)には調庸が二年間免除されている(→相馬郡)。「和名抄」の相馬郡には六つの古代郷がみえているが、現北相馬郡域に比定されるものはない。しかし現利根町の
承平の乱(平将門の乱)に関し、「将門記」に「相馬ノ郡大井ノ津ヲ以テ、号ケテ京ノ大津トセム」という政権構想がみえ、「今昔物語集」「保元物語」「平家物語」などはこれを現実のこととして記しているが、将門が相馬郡を拠点としたことはない。なお現守谷町を中心に数多くの将門伝説が残り、守谷城は将門の本城であったとか、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報