北相馬郡(読み)きたそうまぐん

日本歴史地名大系 「北相馬郡」の解説

北相馬郡
きたそうまぐん

面積:九二・六四平方キロ
利根とね町・藤代ふじしろ町・守谷もりや

県南端、利根川北岸に位置。東は稲敷いなしき郡、北東は龍ケ崎市、北は筑波郡、北西水海道みつかいどう市、南は千葉県。ほぼ東西に細長い郡域であったが中央部に取手とりで市が成立したため西部の守谷町、中央北部の藤代町、東部の利根町に分断され、三町はたがいに境界を接しない。守谷町域はおおむね北相馬台地の西部にあたり、西部を南北に流れる鬼怒きぬ川と南縁を流れる利根川沿岸に低地が広がる。藤代町はほぼ平坦地で、北部を小貝こかい川が流れる。利根町も大部分は平坦であるが、北部には台地が東西に延び、西縁・南縁を小貝川・利根川、中央を新利根川が流れる。土地はきわめて肥沃で、古くから農業が発達しており、穀倉地帯となっている。

当郡は、古代から近代にかけて相馬郡の一部、筑波郡の一部からなるが、相馬の地名については、「下総旧事考」に「相馬ノ名義ハ狭沼ナルベシ。此地。衣川ノ末流。小貝川ニ合シ。今ノ利根川ト川瀬ヲ異ニシテ。立木村ノ北方ヲ迂回シテ。沼沢沮洳ノ地ナレバ。名付シナルベシ」、「利根川図志」には「相馬と命し名の所由を考ふるに、所の体淡海の中の一庭なれば狭場さにはといひけむを、音便にさうまとも転しいふなるべし」とみえている。

〔原始・古代〕

海進期には当郡一帯は海に囲まれており、現利根町には貝塚が数基存在し、花輪台はなわだい貝塚からは黒鯛の骨も出土している。貝塚は主として台地縁辺部に形成され、これらの土地での集住の早さを示しているが、古墳なども台地縁辺で発見されている。北相馬台地北端に大日山だいにちやま古墳(現藤代町)があるほか、現利根町の奥山おくやまから石棺、大平だいへいから住居跡が発見され、花輪台貝塚も住居跡を包含する。

奈良時代になると当地も完全に大和朝廷の支配下に置かれ、平安時代に入り、貞観六年(八六四)には調庸が二年間免除されている(→相馬郡。「和名抄」の相馬郡には六つの古代郷がみえているが、現北相馬郡域に比定されるものはない。しかし現利根町のみつち神社は相馬郡唯一の式内社として「延喜式」神名帳に記載されている。

承平の乱(平将門の乱)に関し、「将門記」に「相馬ノ郡大井ノ津ヲ以テ、号ケテ京ノ大津トセム」という政権構想がみえ、「今昔物語集」「保元物語」「平家物語」などはこれを現実のこととして記しているが、将門が相馬郡を拠点としたことはない。なお現守谷町を中心に数多くの将門伝説が残り、守谷城は将門の本城であったとか、長竜ちようりゆう寺は将門が創建したともいわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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