新治郡(読み)にいはりぐん

日本歴史地名大系 「新治郡」の解説

新治郡
にいはりぐん

面積:四〇〇・二九平方キロ
玉里たまり村・出島でじま村・八郷やさと町・千代田ちよだ村・新治にいはり村・さくら

県の中央部に位置し、東から北は園部そのべ川・難台なんだい山・吾国わがくに山・加波かば山を境に東西両茨城郡、西は筑波山・足尾あしお山を境に真壁まかべ郡・筑波郡に接し、南は霞ヶ浦に面する。筑波山東方は盆地(柿岡盆地)を形成するが、恋瀬こいせ川と桜川の下流域には肥沃な水田が開け、周辺台地は概して平坦な農耕地が多く、典型的な農業地域が形成されている。

「古事記」に「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」とあるが、この新治は現新治郡とは異なり、現笠間市西部から下館・下妻両市にかけての地で、現新治郡域は文禄年間(一五九二―九六)太閤検地で郡域が変わるまでは、茨城郡(現八郷町・出島村・玉里村、千代田村の一部。玉里村の大半は引続き茨城郡に属したが、元禄期に新治郡に入る)、筑波郡(新治・千代田・桜各村の一部。新治村の一部はその後も筑波郡)信太しだ(桜村の一部)河内かつち(桜村の一部)に属していた(新編常陸国誌)

〔原始〕

縄文時代の遺跡は霞ヶ浦周縁部や恋瀬川・園部川の下流域に濃密に認められ、玉里村栗又四ケくりまたしかにある縄文前期の八幡脇はちまんわき貝塚、出島村安食あんじきにある縄文中期―後期の安食平あんじきだいら貝塚、千代田村下稲吉しもいなよしにある縄文中期―弥生後期の根当ねあたり遺跡などが著名である。弥生遺跡は単独では存在せず、縄文遺跡との複合遺跡で数も少ない。古墳も霞ヶ浦周辺に多く、玉里村上玉里の舟塚かみたまりのふなつか古墳、出島村宍倉ししくら・安食の風返かざがえし古墳群、安食の大師の唐櫃たいしのかろうど古墳などが代表的なもので、いずれも古墳時代中期以降である。また恋瀬川上流の八郷町柿岡かきおかに当地方の発生期(四世紀末―五世紀初頭)に属する丸山まるやま古墳、佐久さくには佐自塚さじつか古墳がある。

〔古代〕

常陸国府は茨城郡内(現石岡市)に置かれた。国府には国分僧寺・尼寺も造営され、茨城郡は常陸国の政治・文化の中心地となった。班田収授法の実施に伴う条里制の遺構は、現新治郡域では恋瀬川下流の千代田村下志筑しもしづく、桜村金田こんだうえむろ周辺などに認められており、いずれも国府や郡衙の近郊に位置する。また正倉院に残る調布のなかに茨城郡大幡おおはた(現八郷町)・筑波郡栗原くりはら(現桜村)から貢納されたものもある。「和名抄」に記される郷のうち現郡域に比定される郷名は、茨城郡の夷針いしみ山前やまさき小見おみ・大幡・田籠たかたま城上きのかみ田余たまり安餝あじき佐賀さか大津おおつ拝師はやし各郷、筑波郡の佐野さや栗原くりはら清水しみず各郷、信太郡中家なかべ郷、河内郡の大村おおむら菅田すがた両郷などである(新編常陸国誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新治郡の言及

【常陸国】より

…常陸国西部のうち下妻荘を除く真壁郡東部は常陸平氏の庶流真壁氏の勢力下にあった。新治郡は伊勢御厨(みくりや)小栗保を分出したのち,東郡,中郡,西郡に分かれた。東郡には秀郷(ひでさと)流藤原氏の宇都宮氏が進出,中郡は中郡(ちゆうぐん)荘(蓮華王院領)となり,大中臣姓の中郡氏が支配していた。…

※「新治郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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