日本歴史地名大系 「津波見名」の解説 津波見名つばみみよう 長崎県:南高来郡加津佐町加津佐村津波見名[現在地名]加津佐町津波見名加津佐村の北西部、野田(のだ)名の西に位置する。西部は海に臨む。里(さと)・八石(はちいし)・山内(やまうち)・西平(にしびら)・権田(ごんだ)などからなる。正平二一年(一三六六)一二月九日の大智譲状(広福寺文書)に「中原」とみえ、肥後広福(こうふく)寺(現熊本県玉名市)の開基大智が賀津佐円通(かづさえんつう)寺や田地を禅古に譲ったが、賀津佐村の田のうち中原七反二丈などは譲与の対象外とされた。津波見名に中原、六反田(ろくたんだ)名に上中原・下中原があり、比定地はいずれとも定めがたい。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に「加津佐内津波見村」とみえ、高三二八石余。「島原大概様子書」では同村内五名の一つとしてみえる。延宝年間(一六七三―八一)津波見名の乙名を勤めた安永安次がおり、島原藩主松平忠房はその孝行ぶりを賞して、延宝七年に銀三枚を与え、翌年に諸役夫代を免除、元禄二年(一六八九)に表彰するとともに米五俵を贈っているが、さらに幕府の儒臣林大学頭整宇に孝子安永安次伝の執筆を委嘱、「本朝孝子伝」に二四孝の一人として載せられている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by