野田(読み)のだ

精選版 日本国語大辞典 「野田」の意味・読み・例文・類語

の‐だ【野田】

[1] 〘名〙 野の中にある田。
※現存六帖(1249‐50頃)「しもがれののたの草根に伏す鴫の何のかげにか身をもかくさん〈藤原為家〉」
[2]
[一] 千葉県北西部の地名。利根川江戸川にはさまれた台地上にある。東武野田線が通じる。江戸初期以来の醤油(しょうゆ)醸造が主産業。昭和二五年(一九五〇)市制。
[二] 宮城県塩竈市の地名。→のだのたまがわ(野田玉川)(一)

の‐でん【野田】

〘名〙 野や田。野と田ばかりのような場所。
歌舞伎御摂勧進帳(1773)四立「今日は野田(ノデン)の月一つ」

や‐でん【野田】

〘名〙 原野と田地。田野。また、野中にある田。
文華秀麗集(818)上・奉和春日江亭閑望〈仲雄王〉「野甸宸衷遠、川皐睿望賖」 〔鄒陽‐酒賦〕

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デジタル大辞泉 「野田」の意味・読み・例文・類語

のだ【野田】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「野田」姓の人物
野田誠三のだせいぞう
野田佳彦のだよしひこ

のだ【野田】[千葉県の市]

千葉県北西部の市。利根川江戸川に挟まれる台地にあり、江戸時代以来の醤油の産地。人口15.5万(2010)。

のだ【野田】[ロシアの旧地名]

ロシア連邦の町チェーホフの、日本領時代の名称。

の‐だ【野田】

野の中にある田。

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改訂新版 世界大百科事典 「野田」の意味・わかりやすい解説

野田[市] (のだ)

千葉県北西端の市。2003年6月旧野田市が関宿(せきやど)町を編入して成立した。人口15万5491(2010)。

野田市北部の旧町。旧東葛飾郡所属。人口3万1275(2000)。利根川と江戸川の分流点にあり,町域は両河川にはさまれている。中心集落の関宿は江戸時代には関宿城下の侍屋敷町であった。町人町は江戸川対岸の埼玉県幸手市西関宿や利根川対岸の茨城県境町であったが,県域決定の際,両川を境界に区画されたので城下町は千葉・埼玉・茨城3県に分断された。明治以降,町は衰微し,河川改修によって城跡は河川敷となった。現在は周辺農村の小商業中心にすぎない。農業は野菜の生産が主で,機械,化学などの工場も立地する。1970年ころまでは人口が減少していたが,近年は役場のある東宝珠花(ひがしほうしゆぱな)など南部を中心に住宅地化が進み,人口がふえている。1964年江戸川に関宿大橋,利根川に境大橋が完成して交通が便利になった。
執筆者:

下総国関宿城の城下町で,利根川と江戸川の分流点にある川岸町。戦国期に古河公方に属する簗田(やなだ)氏が築城して居城とした。1590年(天正18)徳川家康の関東入国とともに松平康元が4万石で入城,以後小笠原氏,北条氏,牧野氏,板倉氏,久世氏,牧野氏と続き,1705年(宝永2)に久世重之が6万石で入封以後は明治まで変わらなかった。城下町は城の南方大手門の外に台町,江戸町,上町,下町,内町,利根川の対岸に境町などがあり,江戸川沿いに内河岸,対岸に向河岸,向下河岸の関宿三河岸があって,多くの問屋商人が軒を並べていた。特にここが北関東への干鰯(ほしか),〆粕(しめかす)など金肥流入の拠点となっていたので,江戸,相州浦賀と並ぶ大きな干鰯問屋があった。1774年(安永3)には内河岸に9軒,向河岸に4軒,向下河岸に22軒の船問屋があったが,これは諸荷物請払輸送のみではなく,関宿関の船改めの下請けという特殊な業務を行っていた。江戸往来の川船は三河岸の船問屋に〈宿付〉という契約を結び,船問屋はその船が着いたとき積荷などの改めをして手数料を取り手形を発行し,関所はこれを見て通船を許した。しかし,ここは上野・下野・常陸・下総各方面より江戸に向かう船が輻輳(ふくそう)して関所改めによって滞留し,幕府は1660年(万治3)に用事もなく船を止め置くことを禁止する法令を出すほどだったので,後には改めの順番を定める番取札制度を設けた。また,三河岸からは毎夕江戸日本橋小網町に向けて乗合夜船が出船し,奥州,北関東方面から江戸に向かう旅人の人気を得た。文化年間(1804-18)には乗客20~30人の乗合船が日に2~3艘も出船したこともあったといい,江戸行乗合船出船の独占権をもつ境河岸の問屋から訴えられたが,なかなか止まらなかった。1877年に外輪蒸気船通運丸が就航し,乗合船は消えていったが,その後物資輸送が水運から鉄道に移行し,鉄道の通らなかった関宿は交通の要衝の地位を失って衰えた。
執筆者:

野田市中南部の旧市。1950年野田町と旭,梅郷(うめさと),七福(ななふく)の3村が合体,市制。人口11万9922(2000)。市域は両総台地の北西端を占め,江戸川と利根川に囲まれる。中心市街の野田はしょうゆ生産で名高く,その起源は永禄年間(1558-70)とされる。本格的な生産が始まったのは寛文年間(1661-73)で,茂木・高梨両家が中心となり,江戸川の水運を利用して江戸をはじめ各地に輸送した。1887年野田醬油醸造組合が結成され,同組合は1911年野田~柏間県営鉄道(現,東武野田線)を敷設するなど市域の近代化につとめた。17年茂木,高梨と流山の堀切家,および野田醬油合資会社が合併して野田醬油会社(現,キッコーマン)をつくった。今日では東京のしょうゆ需要の約80%を供給し,海外にも輸出している。市域にはしょうゆ工場と関連産業が多く,食料品製造業が市全体の工業出荷額の35%(1995)を占めている。近年は梅郷や七福に工業団地が造成され,金属・化学・機械工業も立地している。清水公園は桜,ツツジの名所として知られ,野田市郷土博物館にはしょうゆ業に関する資料が多い。
執筆者:

野田[村] (のだ)

岩手県北東部,九戸(くのへ)郡の村。人口4632(2010)。東は太平洋に臨み,北から西は久慈市に接する。北上高地に連なる山地からなり,海岸部は低い段丘を形成している。安家(あつか)川が北東流して太平洋に注ぎ,川沿いにわずかの低地が開ける。漁業はワカメ,ホタテガイの養殖が盛んで,特にホタテ稚貝の生産は県内一である。農業は海霧のため恵まれないが,養豚,食用菊や大豆の栽培などが行われている。マンガン鉱を産出する野田玉川鉱山があったが,1984年閉山した。海岸部は陸中海岸国立公園に含まれ,薄紫色の小豆砂が美しい十府ヶ浦(とうがうら)海岸,下安家渓谷などの景勝地があり,三陸鉄道北リアス線が通じる。
執筆者:

野田(鹿児島) (のだ)

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日本歴史地名大系 「野田」の解説

野田
のだ

武庫むこ西条四条一三里・一四里付近にあった地名。「山槐記」治承四年(一一八〇)七月一九日条に、京から福原ふくはらに向かった藤原(中山)忠親は平清盛が滞在していた野田に着したが、この地を「在西宮松原如来東北五六町」と記している。貞応元年(一二二二)七月一八日の近衛家領弘井庄田地宛行状(大徳寺文書、以下同文書)に、弘井ひろい庄加納田一反は「在西野田」とし、端裏書に「古曾禰村野田券」とあるので、古曾禰こそね村のうちであったようである。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野田」の意味・わかりやすい解説

野田
のだ

鹿児島県北西部,出水市西部の旧町域。出水平野の西部を占める。 1975年町制。 2006年出水市,高尾野町と合体して出水市となった。主産物は米とミカンで養豚,養鶏にも力を注いでいる。ツルの渡来地で,国の特別天然記念物に指定。史跡も多く,島津家の始祖島津忠久らの墓所である五廟社 (ごびょうしゃ) のある薩摩最古の禅寺といわれる感応寺 (かんのうじ) などがある。

野田
のだ

埼玉県南東部,さいたま市東部の地区。芝川と綾瀬川に囲まれた大宮台地に位置する。サギの群生地として有名であった。かつては春になると数千羽のサギが渡来し,営巣,繁殖して,秋になると去るという光景がみられたが,現在は都市化が進んだために消滅し,みることができない。

野田
のだ

大阪市福島区中部の一地区。もとは野田洲と呼ばれる安治川と淀川の洲の1つ。明治中期までは近郊農村であったが,1905年の現阪神電気鉄道の開通以来,市街地となり,現在では JR大阪環状線野田駅があり,地下鉄千日前線の起点でもある交通の要地で,ターミナル商店街としてにぎわう。

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旺文社日本史事典 三訂版 「野田」の解説

野田
のだ

千葉県北西部,江戸川沿岸にある都市。江戸時代以来の醬油産地
中世,足利成氏 (しげうじ) の家臣野田右馬介の支配地。江戸初期から醬油醸造を開始した。江戸への水運が良く,近江商人の進出で発展。近代に入り,1927〜28年の216日に及ぶ野田醬油労組のストライキは有名。'50年に市制施行。

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