浜中庄(読み)はまなかのしよう

日本歴史地名大系 「浜中庄」の解説

浜中庄
はまなかのしよう

下津町の西半分を荘域としたと思われ、鎌倉時代中期以降は、南部を浜中南はまなかみなみ庄、北部を浜中北庄また浜中庄北方とも称した。荘内東部を熊野街道が通り、西は下津湾に面する。「浜仲庄」とも記す。

立荘の時期は明らかでないが、「続風土記」の高野山金剛心こんごうしん院領の項に「此院創立の興起は天養元年二月宇治入道忠実公登御の朝に萌し、後久安四年三月内大臣頼長公ここに親臨みて落慶供養なし給ふ、此時修理料として州の浜仲庄を寄付せらるといふ」とある。また文献上の初見は寿永二年(一一八三)閏一〇月二二日付の摂政近衛基通御教書案(仁和寺文書)で、「高野金剛心院并紀伊国浜仲庄、義仲申請之間、不知子細給下文於明信先了、然而彼御領事、尤有其恐之上義仲已(去カ)申了、早如元可有御知行之由、可令披露給者、依 摂政殿御気色執達如件」とある。これは寿永二年に近衛基通が、木曾義仲の申請をしりぞけて、仁和にんな寺に金剛心院および当庄を元のごとく知行すべきことを命じたものであるが、これにより近衛家が当庄の知行に強い発言権を有していたこと、仁和寺が寿永二年以前から当庄および高野山金剛心院を知行していたことがうかがえる。おそらくはこれ以前から当庄本家職は近衛家が、領家職は仁和寺が有していたと考えられる。

なおこののち本家職がどのように相伝されたかは明らかでないが、領家職は少なくとも文明四年(一四七二)までは、仁和寺の門跡が相続知行したようである(文明四年九月一六日「英基・之種連署奉書案」仁和寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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