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近衛基通 このえもとみち

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近衛基通
このえもとみち

[生]永暦1(1160)
[没]天福1(1233).5.29. 京都
鎌倉時代初期の公卿。基実の子。母は藤原忠隆の娘。嘉応2 (1170) 年正五位下,承安2 (72) 年従四位下右中将,同4年従三位,治承3 (79) 年正二位内大臣に任じられ関白となる。同4年安徳天皇の即位により摂政となる。

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百科事典マイペディアの解説

近衛基通【このえもとみち】

平安末〜鎌倉初期の公卿(くぎょう)。普賢寺殿(ふげんじどの)と号した。父は基実(もとざね)。1179年,平清盛の後援により関白となる。後白河法皇も基通を庇護し,1186年に九条兼実(かねざね)が基通に代わって摂政となったとき,法皇は摂関家の所領を基通の手にとどめた。
→関連項目垂水東牧・垂水西牧

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近衛基通 このえ-もとみち

1160-1233 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
永暦(えいりゃく)元年生まれ。近衛基実(もとざね)の長男。母は藤原忠隆の娘。後白河法皇と継母平盛子(もりこ)の父平清盛の後ろ盾で,関白,摂政,氏長者となる。平家没落後,九条兼実(かねざね)をおす源頼朝によって引退させられたが,兼実の失脚後関白に復帰。基通の代から家名を藤原から近衛とした。従一位。天福元年5月29日死去。74歳。号は普賢寺

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朝日日本歴史人物事典の解説

近衛基通

没年:天福1.5.29(1233.7.8)
生年:永暦1(1160)
平安末・鎌倉初期の公卿。摂政・関白藤原基実の長男。近衛殿,普賢寺殿と号した。母は従三位藤原忠隆の娘。仁安1(1166)年7歳で父を失い,基実室の平清盛の娘盛子の養子となって後見され,嘉応2(1170)年に元服,安元2(1176)年従二位となる。治承3(1179)年摂政・氏長者の叔父藤原基房が清盛のクーデタによって解官されると,内大臣・関白となり,翌年には安徳天皇の摂政となる。時に21歳。清盛の娘を妻とし,寿永2(1183)年平家の都落ちに同行するが引き返し,後白河法皇の意向によって摂政となる。同年木曾義仲追われるが翌年復帰。九条兼実の『玉葉』によれば,基通は後白河法皇の「愛物」で,法皇は若く美しい基通を鍾愛し,都落ち以前に密会して本意を遂げたという。基通を後鳥羽天皇の摂政としたのもその「愛念」のためで,兼実は「君臣合体之儀」は「末代の珍事」と記す。文治2(1186)年源頼朝の意を受けた兼実に摂政・氏長者を代わられ,摂関家は近衛家と九条家に分かれる。その後建久7(1196)年に兼実が失脚すると,源通親の後押しによって再び関白となる。しかしすでに往年の面影はなく,藤原定家の『明月記』によれば人を寄せつけず,目でも合えば擦れ違いざまに放言する荒んだ有様だったという。建仁2(1202)年通親の死後,後鳥羽上皇の意向により摂政を辞す。承元2(1208)年出家。混乱の時代の政局のなかで翻弄されたひとりだった。

(土谷恵)

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世界大百科事典 第2版の解説

このえもとみち【近衛基通】

1160‐1233(永暦1‐天福1)
平安末・鎌倉初期の摂関。藤原基実の長男。普賢寺殿と号した。1179年(治承3)平清盛や後白河院の支持により関白となり,木曾義仲により一時替えられたが,後に摂政に復す。しかし源頼朝は九条兼実を内覧に吹挙して基通を引退させた。その後兼実の失脚により再び関白となった。近衛家の事実上の祖。時々の権力者の庇護下に摂関家領を九条家と二分して伝領した。【佐藤 圭】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近衛基通
このえもとみち
(1160―1233)

平安末期~鎌倉初期の公卿(くぎょう)。普賢寺(ふげんじ)殿。摂政(せっしょう)太政(だいじょう)大臣藤原基実(もとざね)の長子、母は従三位(じゅさんみ)藤原忠隆(ただたか)の女(むすめ)。父の死後、継母の平盛子(もりこ)の父清盛(きよもり)の後援を得て家督を継承、1179年(治承3)11月には、関白基実にかわって内大臣となり、ついで関白となった。83年(寿永2)の平氏都落ちにあたっては、後白河(ごしらかわ)法皇に危急を告げ延暦(えんりゃく)寺に避難させるなどの働きを示した。このため、以後、後白河の知遇を得、源頼朝(よりとも)の台頭以後も、亡命中の源義経(よしつね)をかくまうなど、鎌倉幕府に反抗的態度を示した人物として名高い。96年(建久7)には九条兼実(かねざね)にかわって関白に還任、翌々年摂政、1202年(建仁2)まで在職。天福(てんぷく)元年5月29日没。[鈴木国弘]

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世界大百科事典内の近衛基通の言及

【近衛家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初期,藤原良房が人臣で初めて摂政となって以来,摂政・関白は藤原氏北家の嫡流に伝えられ,ついでその曾孫師輔の九条流に,さらに師輔の孫道長の御堂流に定着し,藤原氏長者も摂関の兼摂するところとなった。こうして平安時代末期の1158年(保元3)には,道長の6世の孫基実が父忠通の譲りにより16歳の若さで関白,氏長者となり,ついで摂政に任ぜられたが,基実が24歳で急死したため,弟の基房が摂政となり,さらに関白に任ぜられた。…

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