浜脇村(読み)はまわきむら

日本歴史地名大系 「浜脇村」の解説

浜脇村
はまわきむら

[現在地名]別府市浜町はまちよう松原町まつばらちよう南町みなみまち立田町たつたちよう・浜脇一―三丁目・朝見あさみ一丁目、浜脇 両郡橋りようぐんばし山家やまが赤松あかまつ鳥越とりごえ

朝見村の東、朝見川河口に位置し、東は別府湾に面する。別府村から府内に通じる豊前道は当村の枝村赤松村を経て銭瓶ぜにがめ峠を越え、高崎たかさき山の南麓を通る道が主道であった。銭瓶峠で豊前道から分岐して七蔵司ななぞうし(現挟間町)に通じる道、朝見村を経て内成うちなり村へ通じる道、鳥越とりごえ峠を越えて内成村へ向かう道などもあった。陸上交通の要所として宿場町の機能を果すとともに湊もあり、さらに温泉場もあって賑わった。漁業も盛んであった。

〔中世〕

保元の乱の前に鎮西八郎源為朝は、京を離れ豊後国で生活した時期があったという(保元物語)。為朝が上陸したのは浜脇の地であるという伝説がある。また大友能直が兵を率いて建久七年(一一九六)に浜脇浦に上陸したともいう(大友家文書録)中世は朝見郷に属し、南北朝時代以降は大友氏の所領であった。古くからの湯治場であり、天文一九年(一五五〇)二月一〇日浜脇で湯治中の大友義鎮に二階崩れの変の報が入り、急ぎ府内に向かっている(同文書録)。天正九年(一五八一)と推定される八月二二日の大友円斎(義鎮)書状(問注所文書)によれば、田原親貫の乱に際し、問注所統景が浜脇の陣に参陣したことをねぎらっている。参宮帳写(後藤作四郎文書)によれば、同一八年に「はまわきのあたり」の「ゆきも殿内かた・宗福寺与八郎殿」が、同一九年に「はまわきしゆ(浜脇衆)」の「佐藤喜衛門殿・安加野勘解由殿」ら六名が伊勢に参宮したことが知られる。ルイス・フロイスの報告(イエズス会通信)は、一五九六年(文禄五年)七月の大地震で沖の浜の近くのハマオクイ等の四つの村の一部が水没、ハマオクイのキリスト教徒は一人だけでこの人だけが助かったと述べている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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