赤松村(読み)あかまつむら

日本歴史地名大系 「赤松村」の解説

赤松村
あかまつむら

[現在地名]大山町赤松

大山の北西、なべ(六〇八メートル)の南西麓、東から西へ流れる精進しようじん川上流東側に開けた小盆地に中心集落がある。大山西麓の槙原まきばらを中心とする広い地域を含み、明間あきま一の谷いちのたにおお谷の支村があった。半川はんがわ(現岸本町)も当村支村だったらしい。精進川沿いに大山道(尾高道)が通り、南東で丸山まるやま(現岸本町)から来る道と合流する。同所には分けの茶屋が設けられている。村名由来は播磨国赤松氏一族の来住伝説などが伝えられている。

近世には大山領で中組に属した。享保四年(一七一九)の徳川氏朱印状では会見あいみ郡七ヵ村のうちに含まれ、高一九六石余(鳥取県史)。ただし正保国絵図元禄郷帳とも汗入あせり郡として記す。延享三年(一七四六)の御巡見様手鑑(吉川家文書)によれば高のうち畑高は四二石余、新開高六九石余、家数三二・人数二〇八(うち男一〇三・女一〇五)、牛三七・馬八。天保三年(一八三二)の大山領郷村高帳(県立博物館蔵)では新開高一七〇石余、山林八ヵ所で三町四反余以上。慶応四年(一八六八)の大山領書上帳(遠藤家文書)では物成高五八石余、家数九三・人数四三六(男二二八・女二〇八)。同年の御領内村々古新高免定等書写(同文書)では本村赤松村の高二八八石余で、うち本坊納物成六三石余、本免三ツ八分六厘・新開免二ツ一分、家数五七・人数二七七。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]大蔵村赤松

右岸に赤松川を合せ、最上川左岸に注ぐ銅山どうざん川下流域に位置し、村域は一部最上川右岸に及ぶ。赤松川右岸の主集落のほか、新田本村鑑では枝郷として烏川からすかわ升玉ますだまむかいふくろ宮岡みやおかの五村をあげ、吉村本村鑑ではこれにとおり村を加える。北は清水町しみずまち村、西と南は南山みなみやま村、東は堀内ほりうち(現舟形町)。元和八年(一六二二)の御前帳写では高四二一石余、寛文四年(一六六四)には高五九八石余、うち改出一二七石余、新田四八石余(新田本村鑑)。明和三年(一七六六)には高六一三石余、うち田方五一九石余、反別六四町三反余、うち田方四二町五反余(吉村本村鑑)。文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数六二・人数三二九。明治三年(一八七〇)の郷村高帳によると山運上銀七三匁、威鉄砲銭三〇〇文のほかに川・諸職人の各運上銀を上納している。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]日和佐町赤松

西河内にしがわち村の北に位置し、北にはちノ山がある。赤松川流域に川又・栗作くりつくり・新家・遠野とおの寺野てらの阿地屋あじや総屋敷そやしき流矢ながれや高瀬たかぜなどがあり、栗作に明徳三年(一三九二)銘の板碑が建てられている。慶長二年(一五九七)の分限帳に「赤松村」とあり、高三七八石余が細井山主水佐の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「赤松谷」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「あか松村」と記される。正保国絵図では赤松村として高三七七石余。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]上郡町赤松

柏野かしわの村の北、千種ちくさ川中流左岸に位置し、集落は東部山地の山裾にある。江戸時代の領主の変遷は延享四年(一七四七)までは上郡村に、同年以降は苔縄こけなわ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高一四一石余・畠高一三一石余。天保郷帳では高四七三石余。天明七年(一七八七)の村明細帳(原村文書)によれば反別三一町五反余、家数九五・人数三八五、農間に男女ともに木柴取に従事した。慶応四年(一八六八)の二木村外神社寺院書上帳(石野家文書)によれば、五社八幡宮(現五社八幡神社)白旗しらはた八幡宮・荒神社・ふく神社、真言宗松雲しよううん寺、観音堂・地蔵堂がある。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]若桜町赤松

若桜宿の北方に位置し、八東はつとう川支流来見野くるみの川の下流域と、その支流角谷つのだに川の流域を村域とする。内町うちまち馬場ばば寺所てらとこ・角谷などの枝郷があり、元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、赤松村のうち馬場村は正保(一六四四―四八)以前から内村として成立していたが、正保国絵図には収載せず元禄国絵図に載せたとある。来見野川の谷を古海こうみ谷・赤松谷・諸鹿もろが谷などとよび、当村より上流に来見野村・諸鹿村があり、この谷を登り詰めると但馬に至る(因幡志)


赤松村
あかまつむら

九条家領佐用さよ庄に属した鎌倉―室町時代の村名。赤松庄とも。千種ちくさ川中流域とその支流岩木いわき川流域の現上郡町赤松・細野ほその柏野かしわの苔縄こけなわ河野原こうのはらを中心とする一帯に比定される。室町時代播磨国守護赤松氏の本拠地。建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家処分状(九条家文書)に、嫡子九条忠家に譲られた所領の佐用庄内として「赤松村」とみえる。宇野則景の息家範が初めて赤松を号したとされるが(赤松家系図など)、佐用庄は鎌倉後期には北条得宗家領で、六波羅北方探題が支配していたと考えられているので、赤松氏も六波羅探題被官であった可能性がある。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]川西市赤松・清和台西せいわだいにし

虫生むしゆう村の西に位置する。鳥脇とりわき山の東端に岩根いわね山があり、北西の風をさえぎる。村落はこの東向斜面にある。天文一二年(一五四三)一〇月二日の道者売券(神宮文庫蔵輯古帳)に「多田庄赤松」などの伊勢神宮の道者を富田全三が中島の北右衛門尉に売渡したことがみえる。天正元年(一五七三)澄宗は「赤松村」などにある田地を羅漢供田として多田ただ院に寄進している(一〇月一五日「澄宗寄進状」多田神社文書)


赤松村
あかまつむら

[現在地名]安城市赤松町

台地中、隅田すみだ川・半場はんば川沿いの谷間に生れた村。西は福釜ふかま村に隣する。西部の開析谷に面した洪積台地の端に、弥生時代後期の赤松遺跡がある。中世松平氏の進出によって、赤松村の耕作者は公方年貢を納めた。公方年貢は荘園制下における荘園領主への年貢で、耕作者は、公方年貢という領主への年貢と名主職得分ともいえる年貢との二種類を合わせて納入しなければならなかった。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]国東町赤松

岩屋いわや村の南西に位置し、集落は赤松川沿いに営まれる。中世は国東郷の内としてみえる。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、服部・金子・原田三氏の知行分として高四五〇石余、家数六五のうち本百姓・小百姓二二、山守一、隠居・名子・牛屋四一、男六二(うち名子四)・女六一、牛二二・馬一。正保郷帳では来崎くのさき郷に属し、田高二一七石余・畑高九七石余で、新田が開かれ、茅山・竹山がある。天保郷帳では高六二三石余。享保一七年(一七三二)の免は春免六ツ二分に対して三ツ八分七厘となっている(後藤家文書)


赤松村
あかまつむら

[現在地名]田原町西神戸にしかんべ

しお川の南岸志田しだ村の東に隣接する。天保三年(一八三二)頃、田は一六町三畝余、畑は一一町三反三畝余(地方秘録)。昭和三七年(一九六二)堀山田ほりやまだの畑から銅鐸一個が発掘された。慶長六年(一六〇一)以来の田原藩領で、明治一一年(一八七八)とうくち本前もとまえ水川みずがわ新美にいのみ・志田・青津あおづ市場いちば漆田うるしだの九ヵ村と合併して神戸村となり、同一五年新美・志田の二ヵ村とともに分立し西神戸村となる。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]西吉野村大字赤松

湯川ゆかわ村東にある。古田ふるた郷のうち。江戸時代初期は湯川村のうち。湯川村の枝郷であったが、元禄四年(一六九一)分離した。分村の時の村高の引分けを示す同年一一月三日付の文書、乍恐口上書(湯川の田中家文書)がある。元禄郷帳に村名がみえ、「湯川村之枝郷」と注する。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]東伯町福永ふくなが

出合いでや村の南西、あらい川の支流(通称赤松川)筋の最上流域に位置する。地名は播磨国赤松氏の一族が居住したことにちなむといい、地内には円心の墓と伝える五輪塔がある。拝領高は一三石余。藪役銀五匁を課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一四石余、竈数七。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]田浦町田浦

田浦村の北にあり、赤松川が赤松太郎あかまつたろう峠から流れ出る地域の山村。薩摩街道が村内を貫通し、赤松太郎峠は古くから三太郎峠の一つとして交通の難所であった。峠の南の麓に熊本から一六里の里数木が植えられ、当時の石畳は今もよく残る。街道筋の合戦場かつせんばとよばれる地域に首塚くびづかと称される小さな塚があり、文禄元年(一五九二)の梅北の乱の際、薩摩勢の東郷甚右衛門と矢崎内蔵助が土地の豪族檜前助兵衛らに討たれ、埋葬された所と伝える。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]八代市二見赤松ふたみあかまつ

二見村の西南に位置する。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」には二見村の小村とされている。葦北あしきた郡田浦手永に属し、「国誌」に高三九石三斗余とある。宝暦(一七五一―六四)頃の肥後国中寺社御家人名附では二見村懸りの村。


赤松村
あかまつむら

[現在地名]三朝町赤松

まき村の南、竹田たけだ川右岸に位置する。拝領高九七石余、本免六ツ三分。倉吉荒尾氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一一九石、竈数九。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一二九石余、竈数二〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android