日本歴史地名大系 「別府村」の解説
別府村
べつぷむら
- 大分県:別府市
- 別府村
現別府市街の中心部を占め、東は別府湾に面する。
文禄年間のものと思われる速見郡内石高帳(志手家文書)は「別符」、高一千二一六石余。前掲知行方目録写に「朝見庄別苻村」とみえ、高はほぼ同じ。
別府村
べふむら
- 大阪府:摂津市
- 別府村
別府村
べふむら
別府村
べつぷむら
慶長四年(一五九九)七月の検地帳(西ノ島町役場蔵)は名寄帳に近い形式で、新兵衛名・孫右衛門尉など名ごとに記載される。毛利氏支配下最後の検地であるが、大・半・小のような中世的な単位はなくなり、一反を三〇〇歩とし、斗代より分米表示が収穫高と考えられることなどから、太閤検地の方針にほぼしたがっているとされる。田数五町九段余・米六九石余のうち六段余は
別府村
べつぷむら
享保一一年(一七二六)に
「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高一千三七一石余。文政七年(一八二四)の頴娃郷旧跡帳(県立図書館蔵)によると高一千九〇九石余(うち石垣浦五九石余・小川浦五石余・成浦一三石余・水成川浦三〇石余・大川浦九九石余)、人家・人数は郷士一〇五竈・六五九人、寺三竈・一人、百姓五三九竈・三千五八人、石垣浦八三竈・四三九人、小川浦九竈・四四人、成浦一〇竈・五八人、水成川浦三五竈・二四三人、大川浦七五竈・四九七人。
別府村
べふむら
松山平野の西平坦部に位置する農村。南西に
古代には温泉郡
別府村
べふむら
- 佐賀県:多久市
- 別府村
別府町を取り囲むように山麓から平地部に広がっている村で、牛津川の北岸に位置し、
郷村としては「丹邱邑誌」の享保六年(一七二一)の「水火田並村落宅地」に「別府村
同村の石高は、「丹邱邑誌」の文化一〇年(一八一三)の「君田采地」では、君田と采地合計現米六七五石五斗六升六合七勺六才である。
別府村
べつぷむら
別府村
びゆうむら
別府村
べつぷむら
別府村
べふむら
別府村
べふむら
別府村
べふむら
別府村
べふむら
別府村
べふむら
別府村
べふむら
- 広島県:東広島市
- 別府村
別府村
べふむら
別府村
べつぷむら
別府村
べふむら
別府村
べふむら
- 兵庫県:加西市
- 別府村
別府村
べふむら
築城村の西に位置し、
別府村
べつぷむら
文献上の初見は天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)で、座光寺之郷・吉田之郷・飯沼之郷・飯田之郷と並んで「別
別府村
べふむら
別府村
べふむら
別府村
びゆうむら
別府村
べふむら
別府村
べつぷむら
別府村
べつぷむら
- 埼玉県:越谷市
- 別府村
別府村
べつぷむら
別府村
べつぷむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報