別府村(読み)べつぷむら

日本歴史地名大系 「別府村」の解説

別府村
べつぷむら

[現在地名]別府市京町きようまちゆみ浜町はまちよう北的きたまと浜町はまちよう南的みなみまと浜町はまちよう駅前本町えきまえほんまち駅前町えきまえちよう北浜きたはま一―三丁目・中央町ちゆうおうまち元町もとまち楠町くすのきまち秋葉町あきばまち末広町すえひろちよう千代町ちよまち浜町はままち松原町まつばらちよう南町みなみまち立田町たつたちよう上野口町かみのぐちちよう天満町てんまんちよう幸町さいわいまち富士見町ふじみちよう野口元町のぐちもとまち野口中町のぐちなかまち西野口町にしのぐちまち田の湯町たのゆまち上田の湯町かみたのゆちよう光町ひかりまち中島町なかしまちよう青山町あおやまちよう山の手町やまのてちよう上原町かみはるちよう原町はらまち、別府 野口原のぐちばる枝郷えだごう

現別府市街の中心部を占め、東は別府湾に面する。石垣原いしがきばる扇状地の南東部にあたり、さかい川と朝見あさみ川に挟まれる。元禄豊後国絵図をみると、海岸の砂丘上に南北に走る豊前道(鹿鳴越)と、野口で同道から分岐するもう一つの豊前道(佐田往還)に沿って集落が形成されており、宿場であった。「豊後国志」は枝村としてたけわき小野おの小平おひらをあげる。文禄二年(一五九三)の大友吉統除国後、豊臣秀吉の蔵入地となり、慶長四年(一五九九)福原直尭領(「領主并村々覚」関家文書)、同五年二月細川忠興領(「速見郡・由布院知行方目録写」北九州市立歴史博物館蔵)、同六年幕府領(細川家臣松井康之預地)となる(「松井家譜」松井家文書)。寛永四年(一六二七)から正保郷帳作成時までは旗本筑紫広門・信門領(「寛政重修諸家譜」・正保郷帳)。以後は幕府領(永山布政史料)。寛文五年(一六六五)より同六年まで肥後熊本藩預。天和二年(一六八二)から貞享三年(一六八六)までは日田藩領。同年幕府領に復し、鉄輪かんなわ村・北石垣きたいしがき村・南石垣村・小野小平村・浜脇はまわき村の五ヵ村とともに高松たかまつ代官所(現大分市)の支配となった(「別府市誌」など)。以後、幕府領として近代を迎えるが、寛保二年―延享四年(一七四二―四七)は小倉藩預地、寛政一一年―慶応三年(一七九九―一八六七)は肥前島原藩預地、同年熊本藩預地と変遷した(「豊後国御預所」永青文庫など)

文禄年間のものと思われる速見郡内石高帳(志手家文書)は「別符」、高一千二一六石余。前掲知行方目録写に「朝見庄別苻村」とみえ、高はほぼ同じ。


別府村
べふむら

[現在地名]摂津市別府一―三丁目・別府・東別府ひがしべふ一―五丁目・北別府きたべふ町・はま町・南別府みなみべふ町・新在家しんざいけ二丁目

一津屋ひとつや村の西にあり、同村と同じく淀川低地に立地。一津屋村新在家村とともに三ヵ村で水防上囲堤を形成し、この三村を「さんそん」と総称する。当地で神崎川が安威あい川と合流したため、堤防の損・決壊などにつねに悩まされた。集落は両河川合流部の堤内にあり、富田とんだ(現高槻市)方面への道が村内を東西方向に横断。古代の鰺生野あじふの、中世の味原あじふ牧の一部にあたるといわれる(→一津屋村。「後法興院雑事要録」文明一五年(一四八三)条に「部苻五百五十文」とみえ、詳細は不明ながら一部に近衛家の得分のあったことをうかがわせる。元和初年の摂津一国高御改帳には高槻藩内藤信正領の「別符 一屋新在家」一千九四三石余と、豊臣秀吉の御伽衆前庭半入領の「別符新在家」二〇〇石がみえる。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳に「別府村」として八五三石余が記され、領主は京都所司代板倉重宗。


別府村
べふむら

[現在地名]遠賀町別府・上別府かみべふ

西にし川の分流(大曲川。現戸切川など)を挟んで今古賀いまこが村・木守きもり村の西から南西に位置する。西は戸切とぎり(現岡垣町)。集落は本村のほか千代丸・高家たかや花園はなぞの(古くは花副といった)、尾谷(小谷)高瀬たかせ・糟立・城腰じようのこし大谷おおたにまつさきなど(続風土記拾遺)。至徳元年(一三八四)九月二七日の麻生義助知行目録写(麻生文書/南北朝遺文(九州編)五)には山鹿庄一四四町のうち、義助の知行しない他人知行所々の一つとして「土取一町 周防摩尼童丸知行」とみえ、この「土取」は現在の別府字土取つちとり一帯に比定される。小早川時代の指出前之帳では別府村は枝村の戸切村を含み田六二町余(分米五六八石余)・畠六町五反余(分大豆七七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高九一九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千四七三石余、家数一三〇・社一、人数八〇〇(田圃志)


別府村
べつぷむら

[現在地名]西ノ島町別府

宇賀うか村の西方に位置する。中世は美多みた庄の内と考えられ、大永五年(一五二五)三月二一日の松田某裁許状写(焼火神社文書)に笠置氏配下の「別府公文」がみえる。天正一一年(一五八三)一〇月蔵田宗右衛門・同九郎右衛門が別府道場前の田地を焼火たくひ神社に寄進している(同文書)。同年頃と推定される一二月八日の島前公事物日記(村上家文書)では当村は串子一〇連を納入することになっている。同一四年七月一八日の宇賀六郎左衛門外三名連署申状写(焼火神社文書)でも領域支配の単位としてみえる。

慶長四年(一五九九)七月の検地帳(西ノ島町役場蔵)は名寄帳に近い形式で、新兵衛名・孫右衛門尉など名ごとに記載される。毛利氏支配下最後の検地であるが、大・半・小のような中世的な単位はなくなり、一反を三〇〇歩とし、斗代より分米表示が収穫高と考えられることなどから、太閤検地の方針にほぼしたがっているとされる。田数五町九段余・米六九石余のうち六段余は建興けんこう寺分、同六段余は公文給など、畠方は四六町六段余・代七〇貫三一一文で、うち石畠いしはたけ牧が九町九段余・代一六貫九五四文、なか牧が一二町二段余・代一一貫九〇五文、大谷おおたに牧が一二町一段余・一九貫三二一文、あい牧が一二町三段余・代二二貫一七一文となっており、同じく建興寺分・代官分・公文給・寺社分などの内訳がある。


別府村
べつぷむら

[現在地名]頴娃町別府・上別府かみべつぷ

享保一一年(一七二六)御領ごりよう村から分村して成立した村。庄屋役所があった松永まつながには現在も各集落へ放射状に延びる道が残されている。南の海岸部には石垣いしがけ(現在はイシガキ)水成川みないがわ(現在はミズナリガワ)小川おがわ浦・なり浦・大川うがわ(現在はオオカワ)がある。石垣浦は現在の別府地内石垣にあたるが、同地は古代の遣唐船の到着地である石籬いしがき浦に比定される。「唐大和上東征伝」および「続日本紀」宝亀六年(七七五)四月一〇日条によると、第一〇次遣唐使の第四船(判官布勢朝臣人主)は天平勝宝五年(七五三)一一月一六日に中国を立ったが、火災を起こして他の三船とはぐれた。同書同六年四月一八日条に第四船が「薩摩国石籬浦」に到着したという記事があるが、これは大宰府からの言上の日付と考えられ、到着はこれより以前であろう。

「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高一千三七一石余。文政七年(一八二四)の頴娃郷旧跡帳(県立図書館蔵)によると高一千九〇九石余(うち石垣浦五九石余・小川浦五石余・成浦一三石余・水成川浦三〇石余・大川浦九九石余)、人家・人数は郷士一〇五竈・六五九人、寺三竈・一人、百姓五三九竈・三千五八人、石垣浦八三竈・四三九人、小川浦九竈・四四人、成浦一〇竈・五八人、水成川浦三五竈・二四三人、大川浦七五竈・四九七人。


別府村
べふむら

[現在地名]松山市別府町・大可賀おおかが三丁目

松山平野の西平坦部に位置する農村。南西に岩子いわこ(一二八メートル)、東に御産所ごさんじよ(五六メートル)の分離丘陵がある。東は斎院さや村・北江戸きたえど村、西は山西やまにし村、南は斎院村、北は山西村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)温泉おんせん郡の項に「別府村 林有、野山有」とある。村名の由来については、行基がこの地に来錫した時、浄明院長福ちようふく寺を建て、地名を別府と称したのによるとの伝承があるが、傍証する史料はない。

古代には温泉郡埴生はにゆう(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の支配下にあった。近世に入り加藤嘉明蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。


別府村
べふむら

[現在地名]多久市東多久町ひがしたくまち別府

別府町を取り囲むように山麓から平地部に広がっている村で、牛津川の北岸に位置し、皆木みなきの渡で松瀬まつぜ村・納所のうそ村と連絡する。

郷村としては「丹邱邑誌」の享保六年(一七二一)の「水火田村落宅地」に「別府村古賀、皆木、宝蔵寺、新所、中村、西分入テ」とある。別府村のうちに記される地域のうち、皆木については同書の承応二年(一六五三)の「邑中正税」に「小城郡晴気郷内皆木村」と記され、貞享二年(一六八五)の「邑中租税」では他地区と同列に皆木村となっている。なお、この項では宝蔵寺ほうぞうじ村・古賀こが村も独立郷村として記され、別府町と別府村の村名はみえず「別府東分」となっている。したがって、前記諸村を包含しての別府村の成立は一八世紀前後と考えられる。

同村の石高は、「丹邱邑誌」の文化一〇年(一八一三)の「君田采地」では、君田と采地合計現米六七五石五斗六升六合七勺六才である。


別府村
べつぷむら

[現在地名]北条市別府・府中ふちゆう柳原やなぎはら

河野こうの川の下流に位置し、その山手寄りの北岸と海岸寄りの南岸に集落がある。海寄りの地域は江戸時代在町として発展した柳原宿町。東は宮内みやうち村・常保免じようほうめん村・佐古さこ村、南は夏目なつめ村・片山かたやま村、北は中西外なかにしそと村・つじ村に接し、西はいつき灘に面する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「別府村 日損所」とみえ、村高は九九四石六斗五升四合、うち田方九四六石四斗一升二合、畑方四八石二斗四升二合とある。天保郷帳では「千四拾弐石九斗二升八合 別符村」とあり、やや増加している。


別府村
びゆうむら

[現在地名]宇佐市別府

樋田ひだ村の南、駅館やつかん川中流域の両岸に展開する。西岸は宇佐平野南部の扇状地にあたり、同川の自然堤防上に集落が発達し、南は中原なかはる村。東岸は河岸段丘と洲が広がり、東は小向野こむくの村・矢部やべ村。長享二年(一四八八)一〇月一日の樋田並勝田畠居屋敷等新立券文(樋田文書)に「一所卅代西ニ付別符六郎次郎」とみえる。小倉藩元和人畜改帳には別苻村とみえ、高三四〇石余、人数一四五、百姓一〇(うち庄屋三)・名子七・鍛冶一・牢人二・寺二ヵ所(二人)、牛一七・馬七。


別府村
べつぷむら

[現在地名]穂積町別府

前野まえの村・上穂積かみほづみ村の北に位置し、東は前野村を隔て長良川、西は五六ごろく川に挟まれた平坦低地に立地。中央をなか川が南流して村を東西に分断している。集落の中心は東部域で、西部に新開の花塚はなづか井場いばがあったが、堤外地のため洪水常襲地であった。中世は船木ふなき庄別府郷として推移。「天文日記」天文五年(一五三六)九月一九日条によると「へつふ城」を斎藤彦九郎の軍勢が攻めている。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)によると、一鉄が別府から伊勢神宮に初穂三貫文を献じている。


別府村
べふむら

[現在地名]加古川市別府町別府べふちようべふ別府町朝日町べふちようあさひまち別府町石町べふちよういしまち別府町中島町べふちようなかしままち別府町西町べふちようにしまち別府町東町べふちようひがしまち別府町本町べふちようほんまち別府町緑町べふちようみどりまち別府町港町べふちようみなとまち別府町宮田町べふちようみやでんまち別府町元町べふちようもとまち金沢町かなざわちよう

新野辺しのべ村の東に位置し、南は瀬戸内海に面する。昔は「一木村」と称した(播磨鑑)。別符村とも記す。天正六年(一五七八)四月一日、三木合戦に先立ち別所長治支援のため毛利勢・紀州雑賀衆が別府に上陸し、阿閇あえ城へ向かい、羽柴秀吉方の黒田官兵衛孝高軍と戦闘となった(四月二日「羽柴秀吉書状」黒田文書など)


別府村
べふむら

[現在地名]田布施町大字別府

現田布施町の南部に位置し、大平おおひら(一九六・三メートル)の北東麓に広がる。北東は麻郷おごう、北西は上田布施かみたぶせ、南西は室積むろづみ(現光市)の各村と接し、南東海上にうま島を望む山村。上関宰判に属した。中世は、京都嵯峨の善入ぜんにゆう寺領麻合おごう郷の一部であった。

村名は慶長一五年(一六一〇)の検地帳に別府とあり、伊保木いよき(現光市室積村)と合石記載、元禄一二年(一六九九)の郷帳に別府村と記される。


別府村
べふむら

[現在地名]青山町別府

寺脇てらわき村・柏尾かつしよ村の西に位置し、村の中央を阿保あお(木津川)および阿保越参宮道が横断する。「神鳳鈔」所載の承久(一二一九―二二)以前の神領の一つに「両宮若林御薗各三石」とみえ、「吾妻鏡」文治四年(一一八八)二月二日条に「伊賀国若林御園内七町九段妨由事 佐々木太郎方五町四段 平六兵衛尉壱町五段 阿保別府壱町」とあり、若林わかばやし御園のうち少なくとも一町は当村や西方の阿保村を含む地域にあったと考えられる(阿山郡伊賀町の→壬生野郷


別府村
べふむら

[現在地名]用瀬町別府

用瀬村の西方、千代川支流佐治さじ川の谷口に位置し、佐治の別府ともいう。枝郷に南別府がある。応永七年(一四〇〇)正月一八日の高野山金剛峯寺々領注文(高野山文書)に「高狩別符」とともにみえる「福田別符」の所在地に推定する説があるが不詳。

正保郷帳・正保国絵図には別符村と記載されていたが、元禄郷帳元禄国絵図作成に際し別府村と改められた。また南別府は正保(一六四四―四八)以前から内村として成立していたが、正保国絵図には収載されず、元禄国絵図に初めて載せられた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)


別府村
べふむら

[現在地名]物部村別府

一宇いちう村の北東、四国山地に発する槙山まきやま川最上流の山村で、東は阿波国那賀なか郡に、北は四国山地を越えて同国三好みよし郡。「土佐州郡志」には「本村・野地・柿保矢・中尾・弥平次、惣曰別符」とある。郷帳類には「別符」と記す場合が多い。大忍おおさと庄槙山郷に属し、延慶二年(一三〇九)三月二〇日付で大忍庄槙山と韮生にろう山の境界を定めた政所書状(蠧簡集木屑)に「別府 宗重名内」とみえる。天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳は「是より別府ノ村」として八筆八反一〇代を記す。


別府村
べふむら

[現在地名]東広島市志和しわ町別府

せき川を挟んで七条樺坂しちじようかばさか村の西に位置し、川の上流は奥屋おくや村、下流は志和西しわにし村。西には七〇〇メートル級の山が連なるが、湯坂ゆさか峠を越えて高宮郡狩留家かるが(現広島市安佐北区)に通じていた。大永五年(一五二五)のものと推定される年欠八月二七日付天野興定合戦分捕手負注文(天野毛利文書)に「芸州於志芳庄別府面佐東族相動候」とある。これはこの年の六月大内軍に米山こめやま城を囲まれた天野氏が毛利氏の仲介で尼子方から大内方に復帰したため、尼子方の武田氏が志和盆地に兵を送り合戦となった時のもので、当地が戦場となっている。


別府村
べふむら

[現在地名]倉敷市中庄なかしよう 別府・吉田よしだ

生坂いくさか村の南、丘陵地沿いに位置し、六間ろつけん川が北から西側へ迂回している。天文九年(一五四〇)八月七日、友野石見守に与えられた地に「別府村」一九七貫文余がある(「左金吾幸久宛行状」黄薇古簡集)。寛永備中国絵図では高六〇〇石余、岡山藩領。元禄郷帳でも同藩領。宝永八年(一七一一)の丹波守様御知行高村割帳によると、高六八四石余、うち御朱印高六〇〇石余・新田分八四石余で同藩生坂領。


別府村
べつぷむら

[現在地名]東部町大字滋野しげの字別府

大石おおいし牧家ぼくや北国脇往還(現国道一八号)から分岐し、新張みはり村に通ずる道の間にある村。東は原口はらぐち村、西は鞍掛くらかけ村、南は大石村、北は新張村に境を接する。

応永七年(一四〇〇)「大塔物語」に「大手之一口者、禰津越後守遠光固之(中略)桜井・別府・小田中(中略)曲尾人々、不非透間相戦」と別府の名がみえる。永享八年(一四三六)三月小笠原正透あての足利義教感状(小笠原文書)に「越知隈河(千曲川)、差寄禰津、追落芝生田・別府雨城、仍太刀一腰遣之候也」とあるから、芝生田しぼうだ城とともに別府城が落された。


別府村
べふむら

[現在地名]大西町別府

現大西町の西端に位置する。東は星浦ほしのうら村、西南は佐方さがた(現菊間町)、北はいつき灘に面している。別府の地名は、応永七年(一四〇〇)伊予国守護河野通之が別府の清林せいりん寺に与えた寺領安堵状「伊予国乃万郡大井郷塩別符清林寺田畠之事」(越智家文書)にみえる。その中に「一所参段 別符中のまち」「一所六段 別符井のへの見ちのうえ」の記載もみられる。また別府村については天正一九年(一五九一)のものと推定される別符村検地帳(越智久栄氏蔵)が残っており、当時の村高は三八九石一升である。


別府村
べふむら

[現在地名]加西市別府町・青野原町あおのはらちよう

常吉つねよし村の北に位置し、村の中央部を普光寺ふこうじ川が南流する。中世は光照こうしよう(現京都市上京区)多可たか庄一二村の内に属した。当地は尾崎おさき野とよばれる原野であったが、正中年間(一三二四―二六)に一三名の者が協力して開墾し尾崎新田と称したという(薬師堂棟札)。当地は在地土豪別符氏の本拠地で、別符氏は光照院領の庄官を勤めた。別符氏の方形の構居跡が残り、周囲の外堀跡は水田になっている。別符氏は江戸時代には代々当村の庄屋を勤めた。慶長国絵図に「べふ村」とある。領主の変遷は正徳二年(一七一二)までは東南ひがしなん村と同じ。享保五年(一七二〇)から寛保元年(一七四一)まで幕府領で姫路藩預地(享保一三年「年貢免状」別府町有文書など)、のち幕府領(寛保三年「年貢免状」同文書など)、宝暦一三年(一七六三)三卿の清水領となり(明和二年「年貢免状」同文書など)、寛政七年(一七九五)幕府領に戻る(同年「年貢免状」同文書など)


別府村
べふむら

[現在地名]築城町上別府かみべふ下別府しもべふ東築城ひがしついきゆみ

築城村の西に位置し、城井きい川下流域左岸の平野部に立地する。大野おおの郷内の別名として国司に認定され別符と称した地。開発領主は豊前国衙官人大蔵板井種人の弟別府種長と息男種清と考えられる(大蔵氏系図)。種清は文治四年(一一八八)二月日の海四子解(益永文書/鎌倉遺文一)に大野庄恒富名を押領した別府種澄と考えられ、豊前国内諸郡に散在した絹富きぬとみ名にも権益をもち、建暦二年(一二一二)香春かわら(現香春町)造営のとき神殿一宇を造進している(香春記)。年不詳の某覚書案(到津文書/大分県史料二四)によれば、永禄一一年(一五六八)六月二〇日田原親宏らの大友勢は毛利勢五〇余騎を打留めた後、「ツイキノ郡別符」に宿陣して京都みやこ郡の杉・西郷両氏の籠る大坂おおさか山を攻め落している。


別府村
べつぷむら

[現在地名]上郷町別府

野底のそこ川とまつ川に沿う低地に位置する。鎌倉時代の中期以降に開発され、室町時代の末に飯田郷から独立して別府郷になったといわれる。低地で洪水に見舞われやすく、周囲の郷村に比して開発が遅れたとみられる。元禄一四年(一七〇一)の野底山論の訴状に、古来別府村は上飯田かみいいだ東野ひがしの(現飯田市)と同村であったとする記述があり、野底川の左岸(北東部)飯沼いいぬま上黒田かみくろだ下黒田しもくろだ南条みなみじようの四ヵ村の入会地であるのに、別府村の入会地は右岸というように分れていたことからも裏付けられる。

文献上の初見は天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)で、座光寺之郷・吉田之郷・飯沼之郷・飯田之郷と並んで「別(府)之郷」とあり、瑞籬一三間の代のうち一貫文を負担している。


別府村
べふむら

[現在地名]志免町別府

宇美うみ川の中流域に位置し、同川の北側をほぼ並行して須恵すえ川が流れる。東は中原なかばる(現須恵町)、西は御手洗みたらい村、南西は席田むしろだ青木あおき(現福岡市博多区)。天正一九年(一五九一)一二月二〇日、「糟屋郡内 別苻村」は穂波ほなみ郡の諸村とともに国貞甚左衛門尉に打渡されている(「鵜飼新右衛門尉等連署打渡状案」萩藩閥閲録遺漏)。小早川時代の指出前之帳では別府村の田八九町二反余(分米八三七石余)・畠九町九反余(分大豆四七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千四五三石余(慶長石高帳)


別府村
べふむら

[現在地名]豊栄町別府

清武きよたけ村の西南に位置する。四方を山で囲まれ、東部を沼田ぬた川の支流椋梨むくなし川が南流、西からの支流を合わせて乃美のみ村に至る。流域の標高四〇〇メートル前後の平地に主な農耕地が広がる。河川上流部に位置するため灌漑用水に乏しく、多くの溜池が構築されている。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に「へふ村」とあり、村高二九七石二升六合。「芸藩通志」には畝数三二町九反一八歩、戸数四七・人口二一八、牛二八・馬九、御留山に植松うえまつ山、池に花野木はなのき池ほか五ヵ所、神社に熊野新宮(明治四三年乃美の本宮八幡神社に合併)、廃寺に僧慶そうけい寺を記す。


別府村
びゆうむら

[現在地名]吉富町別府びよう

土屋垣つちやかき村・楡生にりよう村の南に位置し、佐井さい川東岸の平坦地に立地する。嘉元三年(一三〇五)六月二三日の筑後守某奉書(到津文書/鎌倉遺文二九)によれば、宇佐宮領の「上毛弁分内世戸口以下田畠」は神領興行の綸旨により能智らの知行を止めて宇佐宮惣検校豊前守が領掌することとなった。弁分は当村の前身で、世戸口せとぐちは別府の字瀬戸口せとぐちにあたるとみられる。江戸時代後期までの領主の変遷は広津ひろつ村に同じ。元和八年人畜改帳では御姫様領で、家数二二・人数三九(うち百姓二・名子二)、牛四・馬二。


別府村
べふむら

[現在地名]郡家町別府

篠浪ささなみ村の南東方、私都きさいち川の南岸に位置する。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に正保国絵図・正保郷帳には別符村と載せたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成に際し別府村と改めたとある。拝領高は四九二石余。本免五ツ四分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高五五四石余、竈数三〇。「因幡志」では家数三四、産土神は武王ぶおう大明神。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高五六五石余、竈数二八。


別府村
べつぷむら

[現在地名]千代川村別府

鬼怒きぬ川西岸の洪積台地に所在。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「へつふの郷 卅拾貫文 御年貢銭 斗物 六十俵」とあり、中島家家譜(別府中島家文書)によれば同家は永暦元年(一一六〇)に下妻弘政から別府の地を与えられ、建久四年(一一九三)には八田知家勢と戦った中島清重が、矢に傷つき、別府館で四月一日に死亡している。慶長六年(一六〇一)の多賀谷氏追放後は荒川伊左衛門が当村に土着している(落民士帳)


別府村
べつぷむら

[現在地名]越谷市東町あずまちよう川柳町かわやなぎちよう

四条しじよう村の南東、古利根川(中川)右岸に位置し、集落は同川の自然堤防上の旧奥州道沿いに連なる。当地では嘉吉二年(一四四二)や文明一〇年(一四七八)在銘の板碑が発見されている。地名は別符とも書かれ(飯島家文書)、庄園公領制の土地制度に発するものとみられる。田園簿に村名がみえ、高は田方一二石余・畑方三〇石余、幕府領。


別府村
べつぷむら

[現在地名]邑智町別府

江川支流の尻無しりなし川の水源地域にあり、東は湯抱ゆがかえ村。銀山御囲村・炭方村に指定されていた。年月日未詳の二宮俊実覚書(吉川家文書)によると、永禄六年(一五六三)頃に出雲の尼子氏が大田に着陣、これに対して毛利氏は石見銀山方面への兵糧輸送路を確保するため「別苻と申在所」に伏兵二千五〇〇を配置し、この地で兵糧輸送を阻止しようとした尼子方を撃退している。


別府村
べつぷむら

[現在地名]市貝町田野辺たのべ

田野辺村の南に位置し、南は市塙いちはな村。寛永一五年(一六三八)の検地帳(見目悦男文書)が残る。正保三年(一六四六)に旗本芦野氏の知行になったとみられ、幕末に至る。慶安郷帳では田五三石余・畑一五石余。天保郷帳では高一八四石余。改革組合村では村名がみえず、田野辺村に含まれていたものか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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