浦上則宗(読み)うらがみのりむね

改訂新版 世界大百科事典 「浦上則宗」の意味・わかりやすい解説

浦上則宗 (うらがみのりむね)
生没年:1429-1502(永享1-文亀2)

室町中期の武将美作守。赤松氏の有力被官で,備前和気郡三石城主。赤松政則を補佐し,嘉吉の乱で没落した主家赤松氏の再興に尽力した。すなわち,応仁の乱では細川勝元に属して活躍,赤松氏が山名氏に代わって播磨・備前・美作3国の守護を回復するのに寄与した。文明の初め政則が侍所所司に補せられると,則宗は所司代となり,その後山城守護代も兼ねて,幕政にその手腕を発揮し,1483年(文明15)には守護被官としては異例の山城守護を命ぜられるほど,将軍足利義尚の信任も厚かった。同年山名勢が播磨・備前に侵入すると,帰国して政則に代わり領国内をまとめ,これを撃退した。96年(明応5)政則が没すると,家督をめぐって赤松家中に内紛が起きたが,義村を奉じてこれを鎮めた。その後,義村を後見して領国経営にあたった。則宗の声望は主家をしのぐものがあり,浦上氏興隆の基盤をつくった。74歳で居城三石に没した。
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朝日日本歴史人物事典 「浦上則宗」の解説

浦上則宗

没年文亀2.6.11(1502.7.15)
生年:永享1(1429)
室町時代の武将,赤松政則の家臣。宗安の子。美作守,山城守護代。応仁の乱に政則と共に参戦。文明年間(1469~87)初めごろ政則が侍所所司になると,所司代となり権勢を振るった。文明5(1473)年,室町幕府は播磨国(兵庫県)守護代であった則宗に対し,同国上揖保荘の代官職を東郷帯刀に付与するかどうかを諮っている。翌6年に京都の則宗邸で火災があったとの記事が残り,在京のための邸宅を持っていたことがわかる。同10年8月には,前所司代多賀高忠と共に将軍足利義尚に招かれ饗応を受けている。同16年,山名勢の播磨国侵入に対して政則がその策を誤ると,政則を追い一族の有馬慶寿丸を赤松の家督に立てようとしたが,その後和して山名勢を撃退した。長享1(1487)年9月,一色義秀らの軍勢と共に将軍義尚の近江出陣に従う。政則の没後はその嗣子赤松義村を立てて山名勢と戦い,領国内の争乱も鎮圧した。政則,義村を補佐して,赤松満祐による将軍足利義教の暗殺(嘉吉の変)後衰えていた赤松惣領家の再興に努力し,応仁の乱前後を通じ赤松氏が備前,美作,播磨の守護として復活するのに功があった。また将軍足利義政・義尚の信任も厚かった。備前国三石城(岡山県備前市)で死去

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浦上則宗」の解説

浦上則宗 うらがみ-のりむね

1429-1502 室町-戦国時代の武将。
永享元年生まれ。赤松政則の家臣。応仁(おうにん)の乱のなかで政則を補佐し,播磨(はりま),備前,美作(みまさか)の守護職回復につくす。のち侍所所司代となり,山城守護代をかねる。政則の死後はおさない嗣子義村を後見し,その勢いは主家をこえるものとなった。文亀(ぶんき)2年6月11日死去。74歳。

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