都甲庄(読み)とごうのしよう

日本歴史地名大系 「都甲庄」の解説

都甲庄
とごうのしよう

かつら川の支流都甲川およびその支流長岩屋ながいわや川流域周辺に比定され、現長岩屋・大力だいりき荒尾あらお築地ついじ松行まつゆき新城しんじよううめ加礼川かれがわ一畑いちはた地区と考えられる。来縄くなわ郷内に成立した庄園かと推測されるが、裏付ける史料はない。本家は山城石清水いわしみず八幡宮。領家は八幡宇佐宮神宮寺の弥勒寺。文治二年(一一八六)四月一三日の後白河院庁下文案(益永家記録)にみえる勅免庄豊後国浦部うらべ十五箇庄の一つで、その所当・地利は恒例の仏神事・寺家修理の用途に充てられるという。文治年中に宇佐宮太大工小山田貞遠が作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によると、置路甃六八丈五尺内若宮鳥居内二丈、北生江垣九〇間内二間、西釘貫方間自未申二間、北釘貫一〇間の負担となっている。この指図は弘安年中(一二七八―八八)の貞行まで相伝利用されており、追筆部分もみえる。建暦二年(一二一二)一一月庄官弁済使八多某は重代相伝の下作人丹治光貞に対し当庄弁分べんぶの地、「荒宇」の田畠を下作させている(同月「都甲庄弁済使八多某宛文案」都甲文書)。建保二年(一二一四)六月には預所大法師が弁済使阿賂により他人に宛てられていた荒宇の田畠を、もとのとおり丹治光貞に宛行っている(「都甲庄預所大法師某下文案」同文書)。承久三年(一二二一)三月には田所代・公文・下司・弁済使源により造宇佐仮宮料米として名々年貢米が徴されているが、当庄が納める料米は九筆五石となっている(同月一五日「都甲庄造宇佐仮宮料米徴符」永弘文書)。当庄内には正治元年(一一九九)一二月六日の大神家実譲状案(都甲文書)にみえる石丸いしまる名をはじめ弁分・正清まさきよ用松もちまつ是末これすえ包吉かねよし元得がんとく得成とくなり光行みつゆき榎迫葉付えのきざこはつき弥石丸やいしまる又弥石丸またやいしまる四郎丸しろうまる近成ちかなり是貞これさだ・松行の各名や久用ひさもち名・久末ひさすえ名・末成すえなり名・久末別符・下司げし名・田所たどころ名などが諸史料から抽出できる。

鎌倉時代と推定される弥勒寺喜多院所領注進状(石清水文書)には当庄は九〇町とみえるが、豊後国弘安田代注進状には「都甲郷拾町 同弥勒寺領、地頭御家人都甲左衛門入道西迎跡、同左衛門五郎惟親法師、法名寂妙、左衛門次郎惟房方者、守護所伝之」、豊後国弘安図田帳には「都甲荘七拾丁 宇佐弥勒寺領、地頭都甲左衛門入道西迎跡、子息五郎左衛門惟近相続云々法名寂妙、舎兄四郎左衛門惟信依無足参守護云々」とある。郷と庄の呼称の差は注進主体である国衙と守護所との表現の差である。二〇町歩の減を正確に裏付ける史料はない。

地頭職は当庄を名字の地とする大神姓都甲氏に代々相伝された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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