幕末開国前後の幕府老中首席。阿部正精(まさきよ)の第6子として文政(ぶんせい)2年10月16日、江戸に生まれる。号裕軒。備後(びんご)(広島県)福山藩主で1843年(天保14)老中に就任。翌々年、天保(てんぽう)の改革に失敗した水野忠邦(ただくに)の後を受け、26歳の若さで老中首席となった。アヘン戦争の情報や相次ぐ外国船渡来で海防の急が叫ばれるなか、1853年(嘉永6)ペリーの開国要求に直面、正弘はこれを朝廷に奏聞(そうもん)し、大名、旗本はじめ一般にその対策を諮問するなど、幕政への言路洞開の途(みち)を開いた。翌1854年(安政1)日米、日英、日露の和親条約を余儀なく締結する一方、水戸(みと)藩主徳川斉昭(なりあき)の幕政への登用、島津斉彬(なりあきら)(薩摩(さつま))、松平慶永(よしなが)(越前(えちぜん))、山内豊信(やまうちとよしげ)(土佐)ら有力諸大名との協調を図り、また川路聖謨(かわじとしあきら)、永井尚志(なおゆき)(「なおむね」とも読む)、岩瀬忠震(ただなり)など有能な吏僚を身分の高下にかかわらず幕政の要路に抜擢(ばってき)し、朝廷、幕府、諸藩の合体と幕政の改革に努めた。海軍伝習所や講武所の設置による海軍育成と軍制改革、主要諸港への砲台築造や伊豆韮山(にらやま)反射炉の建設、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の設立による海外事情の研究教育などがその代表的なものである。しかし、これらの協調と改革の路線は、旧来の幕府専断に固執する譜代(ふだい)名家大名群の反感も招き、摩擦回避の意もあって正弘は、1855年堀田正睦(ほったまさよし)(佐倉藩主)に老中首席の座を譲り、翌1856年、外国事務取扱も堀田に兼務させて第一線を退いた。開国の世界史的必然と幕府専断の祖法との矛盾に悩み抜いた正弘が死去したのはその8か月後の安政(あんせい)4年6月17日であった。
[芝原拓自]
『渡辺修二郎著『阿部正弘事跡』(1910・私家版)』▽『小森竜邦著『人間・阿部正弘とその政治』(1985・明石書店)』▽『新人物往来社編『阿部正弘のすべて』(1997・新人物往来社)』
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(井上勲)
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幕末期の老中。福山藩主阿部正精の六男。字は叔道,号は裕軒。伊勢守を称する。1836年(天保7)藩主の兄正寧が隠居した後をうけ福山藩10万石を襲封した。その後,奏者番,寺社奉行を務め,43年に老中に就任し,45年首席老中となった。53年アメリカ使節ペリーの開国要求に対し,諸大名,幕臣に諮問して衆議制の端緒を開き,54年(安政1)日米和親条約(神奈川条約)を締結した。正弘は幕府と徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬ら有力諸侯との協調路線をとり,従来の幕政の姿勢を転換した。しかし,溜間詰譜代大名の反発を招いたため,55年に首席老中の座を堀田正睦に譲り,同時に内政を中心に担当することで反発をかわした。外交姿勢では,岩瀬忠震(ただなり)らの影響もあり,開国論や貿易による富国強兵を唱えるに至った。また,岩瀬や勝海舟,筒井政憲らの人材を登用したほか洋学所(蕃書調所),長崎海軍伝習所,講武所を設立するなど開明的政策を実施した。
執筆者:森田 武
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1819.10.16~57.6.17
幕末期の老中。備後国福山藩主。父は正精(まさきよ)。伊勢守。号は裕軒。1836年(天保7)兄正寧(まさやす)の隠居にともない相続。22歳で寺社奉行,43年,25歳で老中に抜擢された。45年(弘化2)老中首座。弘化・嘉永期には,徳川斉昭(なりあき)や島津斉彬(なりあきら)ら雄藩大名と連携,朝廷に異国船情報を奏上するなど,海防政策に追われた。53年(嘉永6)ペリーの来航時には合衆国大統領親書をうけとり,大名・諸士に対応を諮問し,翌年に日米和親条約を締結して日本を開国に導いた。また品川台場の築造や軍艦の注文,長崎海軍伝習所・講武所・蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の設立などの新政策を実現した。岩瀬忠震(ただなり)・大久保忠寛・永井尚志(なおむね)ら多くの優秀な人材を登用した。
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…激高した町奉行近藤隆左衛門,船奉行高崎温恭,同山田清安が首謀者となり,由羅や久光を暗殺しようと企てたが,事は未然に漏れて49年12月から翌春にかけて大疑獄がおこり,首謀の3人は磔刑・鋸引,一味の50余人も切腹・遠島・謹慎の刑に処せられた。しかし井上経徳ら4人が脱走して重豪の四男福岡藩主の黒田斉溥(なりひろ)に訴えたので,斉溥は兄の中津藩主奥平昌高,弟の八戸藩主南部信順と謀り,斉彬と親しい宇和島藩主伊達宗城(むねなり)を通じて老中阿部正弘に円満な処置を頼んだ。正弘は斉彬の外交手腕に深く期待していて好意的であったから,斉興に隠居の内諭を下し,翌51年2月には斉彬の家督相続が実現した。…
…このため,幕府備後領は2万石弱になったので,上下代官所を石見国大森代官所の出張陣屋に切り換えられた。幕末には1万石を阿部正弘に割き,幕府領はわずか1万石弱に縮小した。
[藩政改革と百姓一揆]
三次藩は備後北部の低生産力地域を領知したため,当初から藩財政の窮乏状態が続き,累積した京・大坂借銀は,1674年(延宝2)に1480貫目,元禄初年には〈大借銀御難儀〉と危機的状況に見舞われた。…
…備後国(広島県)福山に藩庁を置いた譜代藩。領知高10万石。1619年(元和5)芸備両国を領していた福島正則改易のあと,水野勝成(かつなり)が大和国郡山から入封して成立。備後7郡と備中国小田,後月(しづき)郡の一部を領有した。勝成は幕府の配慮を得て,深津郡野上村を中心に城郭と城下町を建設し,領内外から商工業者の来往を誘致した。また領国経済の基礎を固めるため,大規模な新田を開発して新しい村や用水関係を整え,備後表(びんごおもて)や木綿栽培など商品作物を奨励した。…
※「阿部正弘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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