深津市 (ふかつのいち)
日本古代の市の一つ。《日本霊異記》下巻27に見える。それによると,宝亀8年(777)12月下旬に,備後国葦田郡屋穴国(やなくに)郷の穴君弟公(あなのきみのおとぎみ)と伯父の秋丸は,正月元日の物を買うために深津市に向かうが,その途中で秋丸は弟公を殺し,所持する馬・布・綿・塩を奪い,馬は深津市で讃岐国人に売った。その翌年12月下旬,同郡大山里人の品知牧人(ほむちのまきひと)が殺害現場で野宿し,弟公のどくろを供養したため,深津市での取引がうまく運び,饗応にもあずかったという。これによって,深津市では正月の行事に用いる奢侈品をも含む諸物資が取引され,讃岐国や葦田郡からも人々の集まるこの地方の中心的な市であったことがうかがえる。その比定地は,広島県福山市蔵王町宮の前~仁伍付近(旧,市村)が有力視されている。この地は芦田川によって備後国府(福山市の旧神辺町または府中市)と密接に結ばれており,深津市は国府との結びつきの強い市であったと考えられる。
執筆者:栄原 永遠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
深津市
ふかづのいち
日本古代の市。『日本霊異記(にほんりょういき)』下巻第27話によると、8世紀後半の備後(びんご)国(広島県)深津郷に存在し、正月行事用の奢侈(しゃし)品を含む諸物資が売買され、讃岐(さぬき)国(香川県)などからも人が集まる中部瀬戸内の中心的な市であったことがうかがえる。現在の福山市蔵王(ざおう)町宮の前から仁伍(にご)付近(旧名、市村)に比定する説が有力である。この地は芦田(あしだ)川によって備後国府(神辺(かんなべ)町もしくは府中市)との結び付きの濃い地域であり、港の深津港とともに深津市も国府との結び付きが深かったと考えられる。
[栄原永遠男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
深津市
ふかつのいち
奈良時代,備後国深津郡内にあった市場。現在の広島県福山市といわれる。『日本霊異記』に,宝亀9 (778) 年備後国葦田郡の人が正月の買物のため,この市へ行く途中,どくろを供養した話や,讃岐の人が同市で馬を買ったことなどがみえる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の深津市の言及
【市】より
…これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。 8世紀以降の奈良時代~平安初期においても,上述の市は存在し続けるが,それ以外にも《万葉集》に駿河国の〈安倍市〉,《日本霊異記》に美濃国の〈[小川市]〉,備後国の〈[深津市]〉,大和国の〈内(宇智)の市〉,紀伊国の〈市〉などが見える。このほか《風土記》にも商人の集まる場所が見えるから,各地に小規模な市が数多く存在したのであろう。…
【備後国】より
…当国では延暦年間(782‐806)まで調として主として絹糸を納めていたが,山間部の諸郡では鉄が採れるけれども養蚕に不便なため,805年に神石など8郡の調の絹と糸とを鍬,鉄に代えて納めることが許可された。深津(現,福山市)には奈良時代末期に市が立っており([深津市](ふかつのいち)),《日本霊異記》には近在の人だけでなく讃岐国からも人が来た話が載っている。平安末期に一宮の制ができると[吉備津神社]が一宮とされた。…
※「深津市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」