精選版 日本国語大辞典 「正月」の意味・読み・例文・類語
しょう‐がつ シャウグヮツ【正月】
せい‐げつ【正月】
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1年の最初の月。また新年を祝う諸行事や、行事の行われる期間だけをいう。あるいは比喩(ひゆ)的な表現として、「盆と正月が一度にきたようだ」などというのは、大きな喜び事や晴れがましさを示すものであり、「雨降り正月」は正月を休み日の意味に受け止め、降雨のために野外での仕事ができないので、季節を問わず臨時に休日にすることをいう。「餅(もち)なし正月」は、大多数の家では正月に餅を食べるのに、ある家や一族に限って、昔から餅を食べないことを家例(かれい)にしている慣習をいう。昭和20年(1945)ごろまで、日本では人の年齢を「数(かぞ)え年」で計算していた。そのため正月になると、全国民が一斉に年をとるので、正月のことを「年取り」とよぶことが定着している。昔は太陽が西に沈んで、次に沈むまでを1日としていたから、大正月(おおしょうがつ)前夜の大みそかや小正月(こしょうがつ)前夜の14日を年取りとよび、また七草節供の前夜を六日(むいか)年取りという。
[井之口章次]
1年365日余を12か月に分割し、4年に一度の閏年(うるうどし)を置いて誤差を修正する太陽暦に慣れて、現代のわれわれはなんの疑問ももたなくなっているが、暦法の発達しない時代において、1年の初めを規定することは、きわめて困難なことであった。それは世界の暦の歴史をみても明らかである。日本の場合、1873年(明治6)に太陽暦を採用するまで、太陰太陽暦(旧暦)を使っていた。日常生活においては、微妙な太陽の位置を観測するよりは、月の満ち欠けを基準にするほうが簡便である。しかし誤差が大きいために、長期間続けていると季節があわなくなってくる。それを防ぐためには、閏月を設けて修正しなければならない。どこに閏月を設定するかは、月の満ち欠けだけでは不可能で、太陽の観測が必要になる。つまり太陰太陽暦は、日常生活は月に頼り、より高度な知識によって誤差を修正した暦である。中国は早くから進んだ暦法をもっていたから、それを取り入れ学ぶところが大きかった。古代の支配者は、暦を発行することによって支配権を確立した。一方、古代国家の成立前や以後でも、文字の読めない大多数の庶民の生活では、動植物など自然の観察から、およその季節感を体得することができたであろうし、天文学の知識がなくても夏至や冬至を知っていたに違いない。冬至を過ぎると「畳の目の一つずつ」あるいは「犬の足あと一つ分ずつ」陽(ひ)が高くなる、などというのは、自然観察に基づく経験知識である。北半球においては、冬至のとき太陽の力がもっとも弱まるのだとも考えられていた。それを回復させるための種々の祭りがある。冬至の祭りを重視したり、節分や立春を年の境とする考え方は、この流れを引くもののようである。月を基準とするとき、新月より満月のほうが観測しやすい。満月から次の満月までを1か月とするのが自然である。今日、1月1日を中心とする朔旦(さくたん)正月(大正月)より、1月15日を中心とする望(もち)の正月(小正月)のほうが古い形だとする考えがあるのは、これに基づいている。
日本の民族形成に関しては諸説あっていまだ決着をみないが、初め狩猟・焼畑耕作を主生業とする人々が土着しており、あとから稲作を主生業とする集団が渡来し、稲作民族が他を圧倒するようになった、という説は広く認められている。現行の正月行事も、現在からさかのぼって把握できる限りの正月行事は、すべて稲作中心に塗り込められているが、かすかに焼畑時代の名残(なごり)と思われる行事もあり、稲作中心に再編成した改変のあとをたどることもできる。そういう立場から、年中行事全体を見直すことが必要であるが、稲作中心に塗りつぶされてからの歴史も古く、現行行事の基本になっているのも事実である。ここでは稲作中心の正月行事を解説し、必要に応じて焼畑その他にも触れることにしたい。
正月に家々を訪れてくるトシガミ(年神)は、正月様、若年さん、年徳(としとく)様などともよばれ、穀物霊、ことに稲魂(いなだま)から発達した農耕神とされている。そして年神の神格形成にあたっては、祖霊信仰の影響を考えなければならない。先祖の霊に対する信仰は自然発生的なものであったろうが、ここにいう日本的祖霊信仰は、数種の神学風の理論を整え、中世末から近世にかけての時期に形成されたものであろう。祖霊信仰が整備されてからの正月は、盆とともに年に二度の魂(たま)祭り(祖霊祭)の機会で、個性を失って祖霊に融合同化した先祖の霊を迎え祀(まつ)る機会であった。ところが盆のほうは早くから仏教と結び付き、死者の霊の供養行事と考えられ、これに対抗して正月のほうは、死の穢(けがれ)に関係のない、清らかな祭りであることを強調した結果、盆と正月とはまったく別の行事のように理解されてきたが、年の夜に声をあげて死者の霊を呼び迎えるとか、東日本では年末か正月に、御魂(みたま)の飯に箸(はし)を突き立てて祖霊に供えるとか、主として西日本で元日に墓参をする習俗があるなどは、いずれも正月の魂祭り(先祖供養)の名残である。
[井之口章次]
12月13日ごろから始めるのが古風である。この日を煤(すす)とり節供、事始め、正月始め、正月おこしなどという。江戸の千代田城でも13日が煤掃きで、正月の祭りに先だつ物忌みに関係のある日であったが、のちにはただの大掃除と考えられ、期日も正月直前に繰り下げられた。昔は、いろりで薪(たきぎ)を燃す生活だったから、煤がたまったのである。門松については、江戸時代から急速に広まったのではないかといわれている。宮廷には門松を立てる習慣がないし、ある家、ある一族では、先祖が戦いに敗れ、松で目を突いたので、門松を立てない家例を守っているし、杉や榊(さかき)を立てる家もある。節分の柊(ひいらぎ)と同様に、ちくちくするものを門口に立てて門守(かどまも)りの呪物(じゅぶつ)としたものが、年神様の依代(よりしろ)と理解されるようになったのではないか。もとは他人の山から自由に切ってきてよいとされ、山の頂上近くの芯(しん)松をとって家に持ち帰ると、年神様もいっしょに迎えることになった。山から切ってきた松を数日間、屋外の清い場所に休ませておく所がある。門松を立てる日取りは、九松(くまつ)(苦松に通じる)といって29日や、一夜松(いちやまつ)といって大みそかに立てることを忌む。餅を搗(つ)く日も一定しないが、その村、その家では慣例があり、たいてい年末の1日を定めている。多く搗く家では労力交換のユイで搗いたり、都市部では賃搗きも流行した。やはり九餅は苦餅に通じるなどといって、29日の餅搗きを忌む。
正月には家中が年神祭りの祭場になるので、屋内に注連縄(しめなわ)を張り巡らし、あるいはその簡略形として輪注連(わじめ)などを飾り付ける。年棚(としだな)は天井から吊(つ)ったり、鴨居(かもい)のところにしつらえ、その年の恵方(えほう)に向ける。年俵と称する米俵を祭壇にする所もあり、年桶(としおけ)という桶に、米、かちぐり、干し柿(がき)、するめ、昆布などを入れ、上に餅をのせたものを飾ったり、三方(さんぼう)の上に同様のものをのせて「蓬莱(ほうらい)」「お手かけ」「食積(くいつみ)」などという。九州や四国の一部では「幸い木(さいわいぎ)」と称し、松などの丸太を土間に横にかけ、魚、ダイコン、炭などを下げる。塩物のサケやブリをぶら下げ、「掛けの魚(うお)」という所は広い。門松の根元には、年木(としぎ)・新木(にゅうぎ)といって割り木を立てかけておき、これを正月中の燃料とする。正月準備の品々を整えるため、年の市(いち)も開かれる。
おせち料理は、節(せち)の日(改まった機会)の料理ということで、本来は正月に限った名称ではなかった。食生活の貧しい時代には、煮しめ、ごまめ、昆布(こぶ)巻き、煮豆などのおせち料理の品々は最大の御馳走(ごちそう)で、正月は台所に立つことも少なくなるので、自然に保存食の趣(おもむき)をもってくる。大みそかの夜の食事を「おせち」「年取りの膳(ぜん)」などと称して、正月の正式の食事を、元日でなくこの夜に食べる所もある。古くは日没時を1日の境とし、大みそかの夜をすでに正月と考えた名残である。いまも、夕食後ふたたび膳につき、雑煮などを食べて年をとる風習を残す村がある。一般には年越(としこし)そばを食べることが広まっている。また大みそかの晩は、集落中の人が鎮守の社(やしろ)に集まって御籠(おこも)りをするとか、家々で過ごす場合は、いろりに大火をたき、火をたき続けて起き明かすものであった。寺院では百八つの除夜の鐘を鳴らして煩悩を払い、朝を迎えるが、古くは明け方についたもので、寺で勤行(ごんぎょう)のために朝晩ついていたのが、1年の総決算としての除夜に移行したのである。
[井之口章次]
元日の朝は、年神祭りの司祭者である年男が、早く起きて若水をくむ。年男は家長の役目であったが、仕事の内容は家事・雑事なので、長男にくませたり、下男にさせる家もあった。若水は人を若返らせる力をもつ水ということで、若水くみには新しい手拭(てぬぐい)と手桶を整え、この水で雑煮をつくったり、湯を沸かして福茶を飲んだり、顔を洗ったり、風呂(ふろ)を沸かしたりするもので、すべて年男の役目であった。いまでも年神様への供物だけは、男が上げることにしている所がある。雑煮は、年神様への供物を下ろして、ごった煮にして神と人とがいっしょに食べるもののことである。丸餅と角餅、みそ仕立てとしょうゆ味などの区別があるが、一般には餅吸い物のことをいう。大多数の雑煮には餅が不可欠のものとされているが、全国の雑煮を詳細に検討してみると、餅よりも里芋を重視するものがあり、また芋羹(いもかん)といって里芋の羹(あつもの)を食べる所がある。焼畑耕作を主生業とした時代の名残が、儀礼食のなかに姿をとどめているのではないかと考えられている。大みそかの晩から村氏神に御籠りしている場合もあるが、家々で年取りをするときには村氏神に初詣(はつもう)でをする。近隣の神社、寺院を含めて巡拝する例もある。恵方参(えほうまい)りの縁起を担ぐことが流行するようになると、その年の恵方にある社寺に参ることになり、いまは村氏神に限らず、著名な社寺を目ざす人が多くなった。年始の回礼などは都市的な行事であるが、分家の者が本家へ挨拶(あいさつ)に行き、「おおばんぶるまい」などといって、本家・分家の者が集まって共同飲食をすることは広く行われていた。
お年玉というのは本来、家族の一人一人が自分の霊になぞらえた餅を出して並べておき、年神の霊威に触れて霊力を更新しようとするものであった。身祝いの餅というのは、その流れをくむものである。しかし年神の霊威は物理的な存在でない。分家の者が本家に挨拶に行くと、本家の主人が年神の代役になって餅を与える。こういうことから、目上の者が目下の者に与える餅その他を年玉というようになり、やがて金銭の形に統一されてきた。
正月の仕事始めは、屋内作業、農作業、山仕事、商家の仕事始めに大別することができ、期日としては2日、4日、11日などが多い。屋内作業の仕事始めは、縄ない、藁草履(わらぞうり)作りなどの「ない初(ぞ)め」、女性は針仕事の「縫い初め」などがある。藁草履なら1足、針仕事なら袋の一つもつくって、あとは休む。寺子屋で手習い(習字)をするようになって、書初めも広く行われるようになった。農作業の仕事始めは、鍬(くわ)初め、一鍬(いちくわ)、農はだて、田打ち初めなどという。門松の小枝、鏡餅の小片、御神酒(おみき)などを持って田か畑に行き、供物をあげて拝んでから、鍬でちょっと土を打ってくる。山仕事の仕事始めは、竹でつくった折掛樽(おりかけだる)に酒を入れて山に行き、木の1本も切ってから別の立ち木に折掛樽を掛け、山の神を拝んで帰ってくる。そのとき切った木を若木といい、小正月の繭玉(まゆだま)の木にすることもある。
漁村でも舟祝い、乗り初(ぞ)め、釣り初めなどといって、港の近くを2、3周してくる。商家の仕事始めは帳祝い、倉開き、初荷などといい、当日は実質的な商売をしないが翌日から始める。昔の武家では具足(ぐそく)開きがあり、剣道などの寒稽古(かんげいこ)もこの時期に重なってきた。農山漁村や家庭内の仕事始めは、実際の労働に先だつもので、形ばかりを模擬する予祝儀礼であるが、商家の倉開きなどは実務の仕事始めである。正月11日の鏡開きなどは、年神に供えた鏡餅を下ろし、打ち欠いて食べるのであるから、当然に年神祭りの終了を意味する。農村を中心とする年中行事に、商家や俸給生活者(武家)が参加することになって、予祝儀礼と実務の開始と年神祭りの終了儀礼とが混同して理解されるようになったのである。
正月の3日間、5日間を、三が日(にち)、五かん日といって、正月のなかの中心的な期間として祝うが、門松を取り払うのは7日、11日、14日などで、門松の立っている間を松の内という。正月はめでたい祭りだという考えが強いため、三が日の間は僧侶(そうりょ)の来訪を嫌い、4日を寺年始として僧が各戸を回る。浄土真宗の濃厚な地帯では、三が日も僧侶の出入りを忌むことがない。6日の晩には若菜迎えがあり、春の七草を刻む。七草は時代によって変動があるが、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの7種で、とくにナズナを重視する。「七草なずな、唐土(とうど)の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、ストトンストトン」などと唱えながら、七草たたきを行い、7日の朝は七日正月といって、七草粥(がゆ)(餅粥)をつくって一家で祝う。
[井之口章次]
元日を中心とする大正月に公的な行事が多いのに対して、15日を中心とする小正月は女の正月ともいい、呪術(じゅじゅつ)的な行事が集中している。餅花や繭玉は、木の枝や藁に餅や団子をつけ、秋の豊作を予祝するものであり、削花(けずりばな)や粟穂稗穂(あわぼひえぼ)も同じ趣旨のもので、ヌルデ、ヤナギなどの木を削掛(けずりかけ)にして、花のような作り物をこしらえる。雪の上や土間で田植のようすを模擬的に演技する「庭田植」、柿などの果樹に刃物を当てて豊作を約束させる「成木責(なりきぜ)め」、祝い棒で嫁の尻をたたいて多産をまじなう「嫁祝い」、年間の天候や農作物の豊凶を占う「豆占(まめうら)」や「粥占(かゆうら)」、害鳥などを呪術的に追い払う「鳥追い」や「もぐら打ち」など、農耕に関係した予祝や年占の行事が多い。
年の境に遠くから尊い神が訪れてくるという信仰は世界的なもので、大正月の神もその一つであるが、小正月にもそれがある。秋田県男鹿(おが)半島のなまはげばかりが著名になったが、同類の行事はホトホト、コトコト、アマメハギ(アマミハギ)、ナモミタクリなどとよばれて全国に分布する。青年や子供が仮装して遠来の神をかたどったものであり、これらは「来訪神」とよばれる。なお、小正月などに行われる来訪神行事10件が「来訪神:仮面・仮装の神々」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に一括登録されている。秋田県横手市などの「かまくら」と称する雪小屋は、全国に広く行われる正月小屋の一種で、屋外に臨時のかまどを設け、別火(べっか)・物忌みの生活を送るためのもので、「どんど」の火祭り行事と合体したものがあり、どんど小屋に寝起きしたのち、その小屋を火祭りで燃やす。16日は念仏の口明けとも鉦(かね)おこしともいい、正月中に遠ざけた仏教行事が解禁になる。また盆の16日と同じく藪(やぶ)入りの日で、嫁が里帰りしたり、奉公人に休暇を与えたりする。
[井之口章次]
祝言人(ほかいびと)という、めでたい文句などを唱えて家々を門付(かどづけ)して回り、米麦や銭をもらい歩く人々があった。万歳(まんざい)、春駒(はるこま)、獅子舞(ししまい)、福俵売りなどがある。また正月の遊びには、羽根突き、的射(まとい)、凧(たこ)揚げ、綱引、あるいは屋内では双六(すごろく)、かるた、宝引(ほうび)きなどがあり、それぞれ他の機会にも行われるが、年占的な性質をもっているところから、とくに正月の遊びになったのであろう。
正月の終わりについては明確でない。年神を祀(まつ)る家庭祭祀(さいし)と規定すると、年神の依代である門松を外す時期ということになり、あるいは供物の鏡餅を下ろすときでもあるが、それぞれの期日は食い違っている。そういうなかで二十日(はつか)正月を正月終(じま)いとする例が多い。この日を骨(ほね)正月とか乞食(こじき)正月とかいい、正月用の新巻(あらまき)のサケやブリを吊(つる)したままで少しずつ切り取って食べていき、20日ごろには骨ばかりになっているものを、おもしろく表現したものである。1月のみそかや2月1日を正月の終わりとする所もある。
[井之口章次]
中国では正月は春節(しゅんせつ)、正月、新年、過年などとよばれ、伝統的に太陰暦に基づいて実施されてきた。公的場面では太陽暦が用いられている現在においても同様である。中国では現在正月行事も多方面において改革がなされているが、漢民族の間にみられた伝統的な正月行事は以下のごとくである。
北方では12月23日、南方では12月24日に行われるかまど神(竈君(ツァオチュン))の送神から正月行事は始まる。竈君はつねに家々のかまどにいるが、この日諸神を引き連れて天界へ帰り、道教の最高神玉皇大帝にその一家の1年の行状をつぶさに報告する。これによって来年の一家の吉凶禍福が決定されるのである。家々では竈君によき報告をしてくれるようにとの祈りを込めて送神を行い、これ以後、大掃除、年糕(ニェンカオ)とよばれる餅(もち)などの正月料理の準備、門につける門神像や春聯(しゅんれん)(門の両わきにつける対句)などの飾り付けが行われる。大みそか(大除夕(ターチューシー))には、神、祖先、鬼(無縁仏)などに供物を捧(ささ)げ、夜には一家がそろって年夜飯(ニェンイエファン)あるいは団円飯(トワンユワンファン)といわれる年越の食事をゆっくりと楽しむのである。食事が終わると幼い者より順に年越の挨拶(あいさつ)があり、子供たちには圧歳銭(ヤーソイチェン)(お年玉)が与えられる。
北京(ペキン)や浙江(せっこう)・安徽(あんき)省の一部では大みそかの夜半から明け方にかけて接神の儀礼が行われることが報告されている。これは、12月23日に天界へ昇った竈君が諸神を引き連れて地上に戻ってくるのを家々で迎えるものである。接神をこの日に行わない地域でも年明けの時間に至ると家々で爆竹を鳴らし、神に供え物を行う。これを開正(カイチョン)・開春(カイチュン)と称し、これ以後、正月が始まる。いずこにおいても、夜が明けると家内の諸神・祖先を拝み、寺廟(じびょう)へ参拝に行き、また年始回り(拝年(パイニェン))に歩く。元旦(がんたん)から5日の間を新正・新春といい、この間、不吉なことをいわない、物を壊さない、けんかをしない、殺生をしないという禁忌が守られ、地域によっては福が逃げるとして塵(ちり)でさえも外に出さないこともあり、北京などのように婦女子が外出すること、針を持つことが禁じられる所もある。
3日には新春の華やかさのなかにあってとくに忌みを感じさせる地域がある。福建省厦門(アモイ)では、この日に昨年死亡した者の祭祀(さいし)を行い、人々は当日出歩くのを好まない。広東(カントン)省では財神福星を迎えるため家内の汚い物を焼く送窮を行い、この日には親戚(しんせき)・友人の間で何事があっても行き来しないという地域もある。江蘇(こうそ)省蘇州(そしゅう)ではこの日は小正朝(シャオチェンチャオ)とよばれ、元旦と同様に掃除をせず火もおこさない。台湾でも3日に墓参りをする所もあり、またこの日の晩にはネズミが嫁取りをするといわれ、これを阻むため、そうそうに明かりを消し床につく。
4日には福建・広東省や台湾において竈君などを迎える迎神が行われる。5日は破五(ポーウー)、酺五(プーウー)、開小正(カイシャオチョン)、隔開(コーカイ)などとよばれ、正月の供物が下げられ、店が開き、市が立つが、まだ正月気分は抜けない。
9日は道教の最高神玉皇大帝の誕生日であり、福建・浙江・江蘇省の一部や台湾全島では主として家ごとに厳粛・敬虔(けいけん)な祭祀が行われる。しかし北方では9日になんの行事も報告されていない。また四川(しせん)省成都(せいと)では上九(シャンチウ)と称し、元宵節(げんしょうせつ)の準備が始まる日にあたり、湖北省では破九(ポーチウ)としてこの日から仕事が再開される。安徽省では女性が九娘神(きゅうじょうしん)へ参拝に行き、養蚕のできぐあいや財運などを占う風習がある。
15日は元宵節であり、寺廟や商店の軒先に灯籠(とうろう)が飾られ、当日はあちらこちらで音楽が奏でられ、灯猜(トンツァイ)といわれるなぞなぞが行われる。人々は提灯(ちょうちん)を持って町を歩き、最後の正月気分を味わう。当日には元宵(ユワンシャオ)とよばれる団子を食べるが、これは一家だんらんを意味している。またこの日は上元節ともいわれ、天官大帝の聖誕が祝われる。この日をもって一連の正月行事は終わりを告げる。
このように各地の習俗には若干の差異はみられ、また時間的な変化もあるが、送神から元宵節に至る正月期間、元旦から5日までのハレと禁忌の時間、元旦の神・祖先に対する祭祀、また送神・迎神にみられる神の去来の観念は、中国の漢民族全体にかなり高度の普遍性をもって存在している。また2日から月末にかけて、嫁の里帰りの風習も各地にみることができる。
[植野弘子]
大みそかの日に眠ると、眉毛(まゆげ)が白くなり、履き物が盗まれ不運が訪れるといわれ、履き物を室内に隠し、眠らずに元旦を迎える。元旦には新しい服に着替えて、祖先の霊に拝礼する。これを正朝茶礼という。茶礼が終わると「福をたくさんもらいなさい」と新年の挨拶(あいさつ)をし、トッククック(朝鮮式雑煮)を食べる。食後、親類や隣家や友人の家に年賀に行く。正月の雰囲気は上元(正月15日)まで続き、擲(ユッノリ)(双六(すごろく)のようなゲーム)や凧(たこ)揚げ、板戯(ノルティギ)(板跳び)などの遊びが行われる。また12日までは鶏の日、豚の日、羊の日、犬の日、牛の日、馬の日、人の日などと動物の名でよばれる。そしてたとえば兎(うさぎ)の日には糸を紡ぎ、それを身につけ厄払いをし、また女子が家に先に入ってはいけないなど、それぞれに行事や言い伝えがある。上元は大望日ともいい、朝早く耳明酒を飲み、ブロム(皮膚病を防ぐよう、クルミなど)をかみ、糯米(もちごめ)でつくった薬飯や五穀飯を食べる。またこの日には「車戦」「獅子舞(ししまい)」「影踏み」「たいまつ合戦」などの行事が行われ、夏負けを防ぐため、最初に会った人に「夏の暑さを買え」と言う「暑さ売り」の行事もある。水に浸した豆や、この日の月のようすによって豊凶を占う。また、この日の月を最初に見た人は願い事がかなうといわれ、裏山などで「迎月」をし、足を病まないようにと橋を12回往来する「踏橋(タリパルピ)」を行う。
[中村秀紀]
イランの正月は3月21日前後の春分の日である。正月は12日間続き、小正月である13日は1日を郊外の水辺で過ごす。この日は、旧暦3月3日の禊(みそぎ)の日や西洋の復活祭前後にあたり、卵を割って再生する文化と関係する。正月には祖霊が大挙してこの世にやってきて、人間や動植物を活気づける。6日は水かけ正月でゾロアスターの誕生日であった。東方キリスト教の1月6日は受洗日で聖誕日である。中国の1月7日の人日(じんじつ)はこれに相当する日である。
正月の祭壇には7種の植物からなるハフト・シーンというものが供えられる。「七種粥(ななくさがゆ)」と同じように古くは正月の食べ物であった。春分正月は、冬至から3か月の間の物忌みの行事や、まれびとを迎える行事など、一連の冬の祭りの行事のあとにやってくる。年末最後の水曜日の前夜には大みそかの行事が各地で行われ、どんどの火で家の炉の火を改め、古い食器を割って新品と取り替える。古くは小正月にも水辺でのどんどと松明(たいまつ)の祭典があった。
[井本英一]
『民俗学研究所編『年中行事図説』(1975・岩崎美術社)』▽『西角井正慶編『年中行事辞典』(1958・東京堂出版)』▽『鈴木棠三著『日本年中行事辞典』(1977・角川書店)』▽『直江広治著『中国の民俗学』(『民俗民芸双書13』1967・岩崎美術社)』▽『井本英一著『飛鳥とペルシア』(1984・小学館)』
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…1月15日を中心とする新年の行事。1月1日の大正月に対する呼名。十五日正月ともいう。…
…暦日上の正月を待たずに年の途中に儀礼的に正月を迎え,旧年から脱しようとすること。天候不順で秋の実りが危ぶまれたり,悪疫が流行したり,天変地異が続くと,ときならずだれが始めるともなく餅を搗(つ)き,門松を立て,しめ縄を引き,服装を改めて正月礼に歩くことが起こり,次々に近隣に流行することがあった。…
…朝廷の祓の行事が6月と12月にあるのもその一例で,1年の前半と後半で行事が反復する。現代では正月と盆(盂蘭盆会)との対応に顕著に現れている。 《養老令》には朝廷の年中行事がみえている。…
※「正月」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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