日本大百科全書(ニッポニカ) 「淵蓋蘇文」の意味・わかりやすい解説
淵蓋蘇文
えんがいそぶん
(?―665)
朝鮮、高句麗(こうくり)末期の政治家。朝鮮、中国の諸文献では泉蓋(せんがい)蘇文といい、『日本書紀』では伊梨柯須弥(イリカスミ)という。父の後を継いで東部(あるいは西部)の大人となり、大対盧(だいたいろ)となった。彼は豪気果断な武人的性格で、敵対する栄留王をはじめ宮廷貴族たち100余人を殺害し、宝蔵王を擁立して戦時体制を確立した(642)。彼はこの国内体制を背景に、積極的な対外活動を展開した。643年には道教を受容するなど文化活動も積極的に行ったが、百済(くだら)と結んで新羅(しらぎ)を攻撃し、旧領を奪回するなど領土の拡張にも努めた。このとき唐は新羅の依頼により調停に乗り出したが、これに応ぜず、唐の使者を幽閉した。そこで唐の太宗は644年に高句麗を討伐に踏み切ったが、失敗し、その後も高句麗との戦闘が続いた。彼は優れた統率力と戦略とをもって唐軍の侵入を防いだが、彼の死後、国内が分裂したためついに唐軍に敗れ、668年高句麗は滅びた。
[井上秀雄]