湯船庄(読み)ゆぶねのしよう

日本歴史地名大系 「湯船庄」の解説

湯船庄
ゆぶねのしよう

現阿山町東湯舟・西湯舟付近に比定される。玉滝たまたき杣の開発にともなってできた湯船村が、のち東大寺領荘園となる。領家は同寺東南院。天禄二年(九七一)五月二二日付伊賀国阿拝郡司解案(東南院文書)に「合壱処号湯船庄在阿拝郡川合郷」とあり、その四至を「東限小榲川 南限藤川 西限高榲峯并二俣榲 北限国堺」と記す。小榲こすぎ川は現伊賀いが小杉こすぎから現上友田かみともだへ流れる野田のだ川、ふじ川は上友田の東山地より流れて中友田で小杉川に合流する川、西の高榲たかすぎ峯・二俣榲ふたまたすぎは不詳だが現城出しろで付近と想定される。北は近江国馬杉ますぎ(現滋賀県甲南町)に接する。

湯船庄はもと橘文懐の所領であったが、娘貞子がこれを譲り受けた。しかし元実(文懐息)の子輔弼との間に相論が起こり、貞子は右大臣殿(藤原頼忠)に訴え、郡司が輔弼を尋問したところ、輔弼は公験を所持していなかったので、貞子の訴えが通り貞子の名で立券された(前出解案)。天徳二年(九五八)玉滝杣を元実から施入された東大寺は、同杣近辺の荒廃田畠開発を許可され、同四年二月および応和三年(九六三)一一月に開発田の正税利稲を免除されている(保安四年九月一二日「明法博士勘状案」東大寺文書)。この開発に伴い東大寺領湯船村と貞子領湯船庄の境界が入交じり、正暦三、四年(九九二、九九三)頃「御寺使入乱四至之内、号玉滝杣之領、勘徴地子」といった相論が起こった(万寿二年五月一四日「威儀師仁満解案」東南院文書)。時の領主僧中満は当時東大寺別当であった内供奉十禅師深覚(藤原師輔息・頼忠従兄弟)へ訴え認められた。しかし四至の札が朽損したため、再び東大寺より収穫物を取られた。領主威儀師仁満はこれを東寺長者になっていた深覚に訴え、深覚の命をうけた東大寺別当観真は、田畠地子・臨時雑役の停止を玉滝杣使権寺主念秀に命じた(万寿二年五月一四日「威儀師仁満解案」・同年八月一四日「東大寺政所下文案」東南院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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