日本歴史地名大系 「湯船庄」の解説
湯船庄
ゆぶねのしよう
現阿山町東湯舟・西湯舟付近に比定される。
湯船庄はもと橘文懐の所領であったが、娘貞子がこれを譲り受けた。しかし元実(文懐息)の子輔弼との間に相論が起こり、貞子は右大臣殿(藤原頼忠)に訴え、郡司が輔弼を尋問したところ、輔弼は公験を所持していなかったので、貞子の訴えが通り貞子の名で立券された(前出解案)。天徳二年(九五八)玉滝杣を元実から施入された東大寺は、同杣近辺の荒廃田畠開発を許可され、同四年二月および応和三年(九六三)一一月に開発田の正税利稲を免除されている(保安四年九月一二日「明法博士勘状案」東大寺文書)。この開発に伴い東大寺領湯船村と貞子領湯船庄の境界が入交じり、正暦三、四年(九九二、九九三)頃「御寺使入乱四至之内、号玉滝杣之領、勘徴地子」といった相論が起こった(万寿二年五月一四日「威儀師仁満解案」東南院文書)。時の領主僧中満は当時東大寺別当であった内供奉十禅師深覚(藤原師輔息・頼忠従兄弟)へ訴え認められた。しかし四至の札が朽損したため、再び東大寺より収穫物を取られた。領主威儀師仁満はこれを東寺長者になっていた深覚に訴え、深覚の命をうけた東大寺別当観真は、田畠地子・臨時雑役の停止を玉滝杣使権寺主念秀に命じた(万寿二年五月一四日「威儀師仁満解案」・同年八月一四日「東大寺政所下文案」東南院文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報