改訂新版 世界大百科事典 「藤原頼忠」の意味・わかりやすい解説
藤原頼忠 (ふじわらのよりただ)
生没年:924-989(延長2-永祚1)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(朧谷寿)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安中期の公卿(くぎょう)。摂政(せっしょう)実頼(さねより)の二男。母は左大臣藤原時平(ときひら)の女(むすめ)。右大臣を経て円融(えんゆう)天皇の977年(貞元2)左大臣となる。この年の10月、死を前にした関白藤原兼通(かねみち)は、自分の死後、対立している弟の兼家(かねいえ)を関白にさせまいと、仲のよい従兄弟(いとこ)の頼忠に強引に関白を譲った。翌978年(天元1)太政(だいじょう)大臣となり、花山(かざん)朝でも関白を続けたが、986年(寛和2)一条天皇の即位で辞めた。永延(えいえん)3年6月26日没し、正一位を贈られ駿河(するが)国に封ぜられ、諡(おくりな)を廉義公(れんぎこう)という。三条に住み三条太政大臣とよばれた。
[吉田早苗]
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924~989.6.26
三条太政大臣とも。平安中期の公卿。左大臣小野宮実頼の次男。母は左大臣藤原時平の女。子に公任(きんとう)・遵子(じゅんし)(円融天皇皇后)・諟子(ていし)(花山天皇女御)がある。諡号は廉義公。参議・中納言・権大納言をへて971年(天禄2)正三位右大臣。976年(貞元元)一上(いちのかみ)の宣旨をこうむる。翌年4月正二位左大臣,10月には藤原兼通が没し円融天皇の関白となる。978年(天元元)太政大臣。981年従一位。984年(永観2)に花山天皇が即位してからも関白にとどまるが,実権を藤原義懐(よしちか)ににぎられ公事には従わなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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