湯船村
ゆぶねむら
[現在地名]小山町湯船
柳島村の西に位置し、北は駿相の国境を形成する不老山から湯船山・明神峠と続く稜線を境に相模国世附村(現神奈川県山北町)。その稜線を水源として南流する湯船川(上流は湯船沢)に沿って本村および中かみ村・大かみ村・尾崎村(延宝八年「村鑑」池谷家文書、以下断りのない限り同文書)の四集落が点在する。「駿河記」によると昔温泉があったことが村名の由来という。湯船沢右岸字谷津の舌状台地東裾に湯船堀之内という地名(家名)が残り、中世領主の館跡といわれる。また柳島村境の字遠茂白や附野の高地(標高四〇八メートル)には中世の山城跡(湯船城跡といわれる)があり、その東麓に応永年間(一三九四―一四二八)日朝が開創した本蓮寺(現法華宗本門流)がある。
湯船村
ゆぶねむら
[現在地名]川上村湯船
上蒜山の南西の麓、標高約五〇〇メートルの高原に位置し、同山と北境にそびえる皆ヶ山(一一五九・三メートル)との間の蛇ヶ乢(「作陽誌」は大蛇峠)から出る湯船川が村の中央を南下し東隣の中福田村(現八束村)を経て旭川に落ちる。西隣は上福田村。北東の蛇ヶ乢を越え伯耆国久米郡福原村(現鳥取県東伯郡関金町)へ出る福原越(「作陽誌」は赤岩越)が通る。
湯船村
ゆふねむら
[現在地名]鰺ヶ沢町湯船町
鳴沢川の支流湯舟川沿いに発達し、東に小屋敷村、北西に南浮田村がある。
天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「猛房」とあり、湯船村に比定されている(西津軽郡史)。伝説によれば、湯船村に猛房という鍛冶の名人がおり、刀剣を作っていたという。「西津軽郡史」によれば、村域内に「もうくさ」(現若山杢沢か)「とぎ水」等の俗称があり、無数の金くそがあり、ふいごの土管、住居跡、鉄の手槌等の出土があるという。
湯船村
ゆぶねむら
[現在地名]和束町大字湯船
和束川の上流に位置し、四周は山で囲まれる。川沿いに信楽街道が通り、下流原山および東北方朝宮(現滋賀県甲賀郡信楽町)と結ばれる。朝宮へは柞峠を越える。「京都府地誌」は地勢を
<資料は省略されています>
と記す。江戸時代は和束郷の一村で、高三六六・八三七石、禁裏新御料(享保一四年山城国高八郡村名帳)。明治一〇年代の調べでは田一四町余、畑一八町余、戸口は一七四戸、七四七人、物産として製茶・石灰があった(京都府地誌)。石灰山について「京都府地誌」は「高五丈周囲廿間、村の北ニアリ、全山本山ニ属ス、坑物発見明治七年、一ケ年出高二万八千五百貫目」と記す。
湯船村
ゆぶねむら
[現在地名]旭志村麓
鞍岳の西麓、平村・高柳村の南東に位置している。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると名請人五一人(うち屋敷持四)、田八町余、畠・屋敷一六町五反余、分米二〇六石余。同一三年の検地帳では、家数一二、人数一三(うち屋敷持七)、牛馬四、田八町九反余、畠・屋敷合二一町三反余、分米二二〇石である。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳によると平川組に属し、戸数七・家数五八、人数五三(うち庄屋一・百姓六・名子六)、牛馬二一、高二二〇石。持高最高は庄屋の八三石。その後合志郡大津手永に属し、宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳では、給知の田畑一四町三反余・高二二〇石余、ほかに諸開の田畑二一町七反余があった。
湯舟村
ゆぶねむら
[現在地名]那須町芦野
奈良川左岸丘陵中腹に位置する。北は大ヶ谷村、西は嶺岸村、南は芦野町。湯船とも記した。近世を通して旗本芦野領。慶安郷帳に村名がみえ、田高四石余・畑高九石余。改革組合村では高一〇七石余、家数一。旧高旧領取調帳では高二七石余。
湯船村
ゆぶねむら
[現在地名]郷ノ浦町初山西触
初山村の南部にある同村枝郷。「壱岐国続風土記」に初山村の枝郷とみえ、「壱岐名勝図誌」では初山村の里名の一つとして記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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