玉滝庄(読み)たまたきのしよう

日本歴史地名大系 「玉滝庄」の解説

玉滝庄
たまたきのしよう

現阿山町にあった東大寺荘園。領家は同寺尊勝そんしよう院。もと玉滝杣といい、杣工らが開発・居住した玉滝村をあわせ、さらに拡大発展し玉滝庄となった。

天徳二年(九五八)一二月一〇日付の橘元実伊賀国玉滝杣施入状案(東南院文書)には、至として「東限玉滝川西峯、南限岡本西谷、西限真木川東峯、北限阿部門谷南峯」とあり、現玉滝付近にあったと思われる。のち東大寺はこれを拡大し、大治四年(一一二九)一一月二一日付東大寺所司解(平岡定海氏蔵)によれば四至は「東限賀茂岱朝宮谷、南限伊勢道藤河、西限信楽杣、北限近江国」とあるように、現阿山町の石川いしかわ馬田ばた中友田なかともだより以北の阿山町の大部分と、現伊賀いが倉部くらぶ余野よの一帯を含めた広大な地域を玉滝杣とする。さらに保安四年(一一二三)九月一二日の明法博士勘状案(東大寺文書)では川合かわい郷山内出作地まで、すなわち現下友田辺りまで含めている。北・西は滋賀県甲賀こうが郡に接する。

前出保安四年の明法博士勘状案に引かれる昌泰二年(八九九)一二月三日付在地国郡証判状に「庄家弐区在伊賀国阿部郡川合郷 一処字玉滝庄 一処字内保庄」とあり、この所領はもと橘文懐のものであったと推定されるが、同勘状にみえる天徳二年一一月二八日の橘元実売券によれば、同じ四至の地を文懐の子息元実が平時光に売却している。同年一二月一〇日、橘元実は平時光に売却した残りの地を東大寺に施入した。この施入状案(東南院文書)によれば、これらの地はもと元実らの先祖の墓地であったが、のち杣山となったという。延喜一七年(九一七)東大寺講堂・僧房が焼失し(日本紀略)、その再建のためこの杣の木が切出されたので、元実はこれを朝廷に訴え認められた。しかし東大寺の再建を妨げたためか元実一族は災禍に遭い他国へ浮浪した。ようやく還向したところ「件杣私人所領也、宮城修理之間、殊給官符令造用」という官符を受けた東大寺らによって材木が切出され、「樹木漸切掃、墳墓作露地」るという状態になった。先祖の祟を恐れた元実はこの地を東大寺に施入したという。一方東大寺は天徳三年「玉滝庄内并杣山辺荒廃田畠伍拾町」の開発を国司藤原忠厚に申請し、四月五日これを認められた。元実の施入を受けた東大寺別当光智は七月二五日この地を寺領とし、他所の入造を停止することを奏上し、同年一二月二六日これを認められた(「太政官牒」「太政官符案」東南院文書)。天禄四年(九七三)東大寺は先に平時光に売却されていた内保うちほ・玉滝両庄を買得し、元実の施入地と合せて一〇月二日寺領として立券した(明法博士勘状案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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