朝日日本歴史人物事典 「源朝長」の解説
源朝長
生年:天養1(1144)
平安後期の武士。源義朝の次男。母は『尊卑分脈』に修理大夫範兼または大膳(典膳)大夫則兼の娘とあるが『吾妻鏡』によると相模の武士波多野義通の妹。波多野氏の所領内の松田亭(神奈川県松田町)で養育され,都に出て非蔵人となり,保元1(1156)年左兵衛尉,平治1(1159)年には中宮少進に任じた。平治の乱に敗れ,父と共に東国へ落ちる途中,竜華越で比叡山横河の法師の射た矢を左股にうけて歩行困難になったため,12月29日,美濃国青墓で自害。あるいは,翌年1月2日,義朝に刺殺されたともいう。『平治物語』は「器量ことがらゆふにやさしくおはしければ」と伝える。<参考文献>野口実『坂東武士団の成立と発展』
(野口実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報