( 1 )近世以後に見られる語であるが、中世の「平家物語」などの文献では大衆・衆徒・堂衆・悪僧・山法師(延暦寺)・寺法師(園城寺)・奈良法師(興福寺)などさまざまな言い方がされていた。
( 2 )寺の権威や荘園を守るために組織されたもので、天延二年(九七四)の祇園感神院(祇園八坂神社)をめぐる元の支配者興福寺と延暦寺の争いに登場するのが早いが、さかのぼっては、「扶桑略記‐寛平六年(八九四)九月一七日」に新羅の侵入に対して対馬の嶋分寺の上座僧面均が兵杖を帯して戦った記事が見える。
古代・中世における武装した僧侶の称。ただし当時の史料には〈僧兵〉の語は見いだしがたく,近世における造語と考えられる。そこで〈僧兵〉を古代・中世の歴史的用語とすることはできないが,史料上に〈悪僧〉〈法師武者〉と現れ,寺院社会内の公認の下に,時に臨み武装して社会的影響力を及ぼした僧侶集団を〈僧兵〉と呼ぶ。
畿内・近国諸寺院の僧兵のありさまは,《平家物語》をはじめ軍記物に生き生きと描き出され,また鎧に法衣をまとい,袈裟で頭を裹(つつ)む僧兵の姿は,《天狗草子》等の絵巻物に見られよう。古代以来朝廷の厚い帰依と保護を享受した寺院社会は,寺内集会の合議のもとに,強訴・抗争を繰り返した。そのなかでいわゆる裹頭(かとう)という独特の風体と,僧侶らしからぬ武勇の描写は,僧兵が寺院社会横暴の副産物という印象を後世にのこすことになった。室町時代前期に成立した《山家要記浅略》には,天台座主良源が,仏聖灯油・供料を確保し,他宗の攻撃を退けるため,愚鈍・無才の僧徒を〈武門一行之衆徒〉(武芸専門の僧徒)となしたとあり,この説は後に《大日本史》に継承され,僧兵の起源とされた。ところが970年(天禄1)良源みずから記した《二十六箇条起請》には,僧徒が裹頭にて堂内に入り行法を妨げることを禁じ,また武器を帯し寺内を横行する僧徒の捕縛を定めており,《山家要記浅略》の説は史実として認めがたい。良源の治下には,裹頭し武器を帯して寺内に止住する僧徒の存在は確認されるものの,彼らは禁圧の対象とされていたのである。
中国仏教以来,為政者の保護のもとに寺院は世俗社会に一大勢力をなし,世俗との密接なかかわりから,僧侶の武装はきわめて自然のなりゆきであった。5世紀に中国で撰述された大乗戒本《梵網経》に見いだされる武装の制戒は,その現実を暗示するものであろう。そこで僧侶の武装に明確な起源を求めることは困難であろうが,寺院首脳や寺僧集団が武装した僧徒の存在を容認し,その力を積極的に利用した時点を僧兵の成立とすることができよう。そして僧侶の武装を禁じた良源の治下より時を隔てぬ993年(正暦4)の,延暦寺(山門)と園城寺(寺門)の分裂と激しい抗争は,僧兵の時代の到来を明快に示すものであった。以後天台教団は,教団の内紛ともあいまって,惣寺が僧兵化の様を呈することになる。僧兵を擁するに至ったのは,もちろん山・寺両門に限らず,南都興福寺をはじめ,根来,熊野,高野山等の畿内・近国の諸寺院,さらに東国・西国の諸大寺においても同様であった。そして11世紀以降,とくに白河,鳥羽,後白河3代の院政期に,南都北嶺をはじめ諸大寺に属する僧兵の活動は,最盛期を迎えた。
さて寺内のいかなる階層の僧徒が僧兵を構成したかが,かつて論争の対象となった。そして出自の身分が高く修学を事とする学侶(がくりよ)(学生(がくしよう))に対し,寺内の雑務にあたる堂衆に加えて寺領荘園から召し出された兵士を僧兵の主力とするのが通説とされた。しかし寺内では,学侶が俗事に交わる一方で,堂衆が学侶とともに法会を勤修する事例が少なからず見いだされる以上,出自・修行方法に差異はあれ,学侶は学問,堂衆は雑務,という認識は正されねばならず,僧兵の階層を一概に規定することは困難である。例えば東大寺の場合,学侶・堂衆は,おのおのの所領とされた寺領荘園の年貢緩怠に対しては個々に,惣寺領荘園に横行する悪党鎮圧や北嶺との抗争には両者連合して,武装し発向した。また隣接する興福寺との確執のおりには,寺内僧徒がこぞって武器をとったのである。このように寺僧集団の武装行動は,彼らが寺内止住を続けるためには不可避であり,寺内僧徒のすべてが,権益保持,寺内防衛のために僧兵となりえたのである。
鎌倉時代以降,僧兵の行動を抑制しえなかった公家政権に代わり,政治の実権を握った武家政権は,僧侶の武装を厳禁するとともに,その蜂起を武力で弾圧した。しかし僧侶の武装は,一面寺院社会を支える経済活動や,宗派間,寺院間の対立抗争にかかわる以上,幕府の禁制により容易に消滅するものではなく,僧兵の活動は室町時代後期まで確認される。
ところが南北朝内乱期を境として,僧兵の様相に変化がみられた。すなわち〈武門一行之衆徒〉として,延暦寺に〈大名山徒〉,興福寺に〈官符衆徒〉等が現れ,寺内・寺領の保全を任務として,しだいに寺内で権勢を握るようになった。そして室町時代以降の相次ぐ戦乱下に,次々と寺領を失った諸大寺にとり,もはや多数の僧侶を擁することは不可能となり,その一方で大和筒井氏のような,〈官符衆徒〉より戦国大名に成長する法体の武将の活動の陰で,僧兵は寺内に存続する基盤と存在理由を喪失した。加えて織田信長の延暦寺焼打,高野山弾圧や豊臣秀吉の根来焼打等により,寺院社会は決定的な痛打を受け,寺院社会の興隆と軌を一にして生まれ発展をとげた僧兵も,消滅の一途をたどったのである。
執筆者:永村 真
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僧兵とは、寺院僧徒が集団をなして武器をとった姿である。また法師(ほっし)武者ともよばれ、平安末期に白河(しらかわ)法皇が「賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、是(これ)ぞ朕(ちん)が心に随(したが)わぬ者」と述べるほど、僧兵の勢力は強大であり、その組織はさらに寺院連合によって、平家などの武士をも圧倒するほどであった。
兵器をとって闘争に従う僧侶(そうりょ)の出現は、5世紀中ごろの中国にみられるという。わが国では平安時代になって、律令(りつりょう)制の崩壊によって、増大した寺領荘園(しょうえん)を各寺院が自衛する必要が生じたので、非常の場合、寺院集会(しゅうえ)を催して軍団を組織したのである。僧兵の勢力の強大をもって知られた寺院は、興福(こうふく)・東大・延暦(えんりゃく)・園城(おんじょう)の四大寺のほか、高野山(こうやさん)・金峯山(きんぶせん)・熊野(くまの)・多武峰(とうのみね)・白山(はくさん)・彦山(ひこさん)などの諸山のほか、醍醐(だいご)・鞍馬(くらま)・根来(ねごろ)・播磨大山(はりまだいせん)・伯耆(ほうき)大山の諸寺などである。とくに興福寺の僧兵は奈良法師、延暦寺は山法師、園城寺は寺法師とよばれた。
その発生を考えてみると、多くの集会をもつ寺院においては、その集会が統制ある議決をなしたとき、それは一大勢力として団結されるものであり、堂衆(どうしゅ)らの違約的な行動は厳重に戒められたのである。東大寺の場合は両堂衆(法華(ほっけ)堂衆・中門堂衆)、興福寺では東金堂衆・西金堂衆の間に多少の違論はあっても学侶(がくりょ)の指導のもとになされる神輿(しんよ)動座や神木動座の前には、かかる問題は小事として排除され、寺家一大事の前には一大合同がなされるのが当然であって、われわれが僧兵論を展開するとき、これら学侶の集団指導性に重点を置くべきである。そしてこの学侶らが他寺の学侶(東大寺、興福寺、園城寺など)と共同戦線をもつとき、源氏・平氏をもしのぐ軍事力となる。寺院でも、貴族と血縁的関係のある良家の子弟と、強力な発言力をもつ学侶は寺内に優位を保って、律宗分といわれる両堂衆とは官位的にも経済的にも階層を異にするのであるから、かかる社会制度が慣習化している寺院では、単なる学侶の弱体化によって堂衆の集団指導性が寺院内で増大するとは考えがたい。そこで、僧兵集団を二つに分類し、学侶・堂衆集団と、郷民・荘民(神人(じにん))集団とに分けるのが至当と考えるものである。そして両者を統率しているのがやはり学侶集団であり、その学侶集団は主として寺院の中堅を握る中﨟(ちゅうろう)層にあり、この中堅層の動きが僧兵集団を形成指導していたのであろう。この僧兵という軍団組織への改変の手続は、恒例の手掻会(てがいえ)などの祭礼に対する番役、すなわち恒例夫役(ぶやく)を非常のときには臨時夫役に切り替え、刀杖(とうじょう)を持ち、学侶は裹頭(かとう)(白五条袈裟(けさ)で頭部を包む)して薙刀(なぎなた)を持つことによって、そのまま軍団として成立展開するのであって、学侶集会はそのまま作戦集会ともなり、ついで神輿動座という軍事行動に移っていったのである。法会と祭礼に動かす人々を集める寺社の方法は、すぐにそれが兵力の母体ともなるのである。
このように学侶の集団指導性が確立され、十分に計画が練られても、その組織内容において、やはり僧兵軍団は混成的な要素をもちやすいのであって、この弱点を抑えるためにも神威を借る神木・神輿の動座を図らねばならなかった。さらにこの場合においても群衆心理はつきまとうものであるから、末端に対する学侶の指導性は確立しがたいことは、現在のいろいろな事例をみても明らかである。宮中や公家(くげ)よりする、悪僧すなわち僧兵という概念はこうしてできあがったのであって、いままでの公卿(くぎょう)の日記のみで僧兵を論ずることは、けっして適正ではない。また一般的には僧兵の発生は、その集団的指導力、すなわち寺院内の集会制度の発達に基づくものである。そして学侶の寺院社会における集団指導性の欠如を伴うにつれ、平安後期になってより堂衆、寺領荘民に押された強大なる武力が発達して、僧兵は悪徒化したと考えられている。
[平岡定海]
『平岡定海著『日本寺院史の研究』(1981・吉川弘文館)』▽『辻善之助著『日本仏教史』全三巻(1960~61・岩波書店)』▽『勝野隆信著『僧兵』(1955・至文堂)』
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南都北嶺などの顕密寺社の武装した僧,またその集団。そうよばれる特定の人あるいは集団が中世に存在したわけではなく,各寺院の学衆や堂衆全体からなる大衆(だいしゅ)(衆徒(しゅと))が必要に応じて武装・決起したものを近世以降こうよんだ。大衆は10世紀半ば以後自治を強化し,院・房ごとに結集して武力を保持。寺院内部の検断事件や寺領荘園に対する国司の違乱,住人の反抗などに際し,寺院大衆は一致武装して蜂起し敵対者を威嚇,朝廷に圧力をかけた。延暦寺の山法師や興福寺の奈良法師などの活動が知られ,平安後期~鎌倉時代の南都北嶺の強訴(ごうそ)は,公武権力の政策決定に大きな影響を及ぼした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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