源清麿(読み)みなもときよまろ

改訂新版 世界大百科事典 「源清麿」の意味・わかりやすい解説

源清麿 (みなもときよまろ)
生没年:1813-54(文化10-安政1)

江戸末期の刀鍛冶山浦清麿の名でも知られる。信州小諸の郷士山浦信友の次男で,名を内蔵助環(たまき)といい,一貫斎と号した。17歳のとき,兄真雄とともに上田藩工,河村寿隆の門に学び,ついで1834年(天保5)に江戸に出,幕臣で兵法家であった窪田清音後援を受けて技をみがき,四谷に住して四谷正宗とも呼ばれた。志津あるいは左文字などの古作を理想としたと思われ,地景・金筋入りの地刃の冴えた作風は他の幕末刀工追随を許さない彼独得のもので,幕末期第一の名工との評価を得ている。銘は,はじめ秀寿,正行などを名のっていたが,46年(弘化3)に清麿と改銘した。心身を害し,42歳で自刃した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源清麿」の意味・わかりやすい解説

源清麿
みなもとのきよまろ
(1813―1854)

江戸末期の刀工。信州(長野県)小諸(こもろ)の郷士(ごうし)山浦信友の二男で内蔵助環(くらのすけたまき)といい、号は一貫斎。17歳のとき兄の真雄とともに上田の刀工河村寿隆の門に学び、初め正行、秀寿などと銘した。1834年(天保5)江戸へ出て幕臣窪田清音(くぼたすがね)の後援を得て技を磨き、南北朝時代の美濃(みの)(岐阜県)の名工志津兼氏(しづかねうじ)の作風を目標にして新天地を開いた。5年後、清音の計らいで一振り3両掛けで加入者に順次刀を渡す約束の武器講を始めたが、これを果たさずに長州(山口県)へ逃避。そしてふたたび江戸へ戻り、清音に前罪をわびて、45年(弘化2)から鍛刀を続けた。翌年、清麿と改銘。四谷(よつや)伊賀町に居を定め、やがて「四ッ谷正宗」と賞揚されたが、心身を害して54年(安政1)自刃。新々刀(しんしんとう)第一の名人とされ、弟子に栗原(くりはら)信秀、鈴木正雄、斎藤清人などがいる。

[小笠原信夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源清麿」の解説

源清麿 みなもとの-きよまろ

清麿(きよまろ)

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