日本歴史地名大系 「瀬田城跡」の解説 瀬田城跡せたじようあと 滋賀県:大津市南部地域橋本村瀬田城跡[現在地名]大津市瀬田二丁目勢多(せた)橋と東海・東山両道を押える目的で築かれた近世初頭までの城。勢多城などとも。跡地は橋の南、瀬田川沿いにある膳所藩主本多氏の別邸跡と伝え、昭和四〇年(一九六五)山岡同族会により城跡碑が建つが、遺構などは未詳。城主の山岡氏の一族は甲賀郡大原(おおはら)庄毛牧(もびら)(現甲賀町)に住していたが、山岡美作守資広は田上(たなかみ)城に移り、永享期(一四二九―四一)勢多邑を討取り、勢多の山田岡(やまだおか)に築城、この際一字を略して山岡と称し、光浄院とも号した(寛政重修諸家譜)。勢多氏に代わって当地を押え、戦国期には守護六角氏の有力家臣となり、天文一四年(一五四五)五月細川晴元が山城宇治田原(うじたわら)に出陣した際、六角氏被官の青地氏・馬淵氏らと従軍している(「言継卿記」同月二四日条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by