日本歴史地名大系 「熊坂庄」の解説
熊坂庄
くまさかのしよう
現熊坂町を中心とした熊坂川流域の狭隘な谷田、北は子(鳥羽天皇皇女)の死後、春華門院昇子(後鳥羽天皇皇女)からその生母宜秋門院任子(九条兼実の女、後鳥羽天皇中宮)を経て任子の甥九条道家に伝えられた。道家は建長二年(一二五〇)一一月日の初度惣処分状(九条家文書)において、夭折した長子教実の室九条禅尼(九条忠家生母)から宣仁門院彦子(四条天皇女御)に渡し、彦子の死後はその異母弟忠家の子孫に譲るよう指示した。しかし、同八年九月一七日、安嘉門院邦子(後高倉院皇女)は「後高倉院御譲状内御領」である熊坂庄を先に法華堂に寄進していたが、それを撤回する意向を示したものの、翌正嘉元年(一二五七)九月七日、後嵯峨上皇院宣によって法華堂への寄進を再確認しており(経俊卿記)、正安四年(一三〇二)九月に後宇多上皇領となり、嘉元四年(一三〇六)六月一二日には昭慶門院憙子(亀山天皇皇女)に伝領された(「昭慶門院領目録案」竹内文平氏旧蔵文書)。道家の処分状以後、九条家領から熊坂庄の名は消えるので、鎌倉期にはほぼ一貫して院領・女院領として伝領されたとみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報