日本歴史地名大系 「熊坂村」の解説 熊坂村くまさかむら 静岡県:田方郡修善寺町熊坂村[現在地名]修善寺町熊坂狩野(かの)川の中流域の西岸にある村。江戸時代は君沢(くんたく)郡に属し、南は瓜生野(うりゆうの)村、東は川を挟んで田方郡大仁(おおひと)村(現大仁町)。観応三年(一三五二)三月二六日の伊豆守護畠山国清書下(相模文書)に「伊豆国狩野庄熊坂村」とみえ、狩野庄に含まれていた。国清は守護代遊佐勘解由左衛門尉に宛てて、当地の下地を足利尊氏の寄進状等を受けて鎌倉法泉寺雑掌に渡すよう命じている。貞治六年(一三六七)一〇月一二日には同寺雑掌の訴えを受けて、守護高坂氏重が狩野介入道に押領された熊坂郷を同寺に返還するよう命じられる(「佐々木高氏奉書」塙文書)。 熊坂村くまさかむら 長野県:上水内郡信濃町熊坂村[現在地名]信濃町大字熊坂現信濃町の東北部。東は古海(ふるみ)村、南は野尻(のじり)村、西は関(せき)川をもって越後国頸城郡関川村(現新潟県中頸城郡妙高高原町)、北は同兼俣新田(かねまたしんでん)村・田口新田(たぐちしんでん)村(同前)に接する山間地であり、古海川が村の中央を西流して関川に注いでいる。関川沿いと古海川下流に熊坂平が開け、野尻村赤川(あかがわ)で北国脇往還から分岐して田口新田村に至る熊坂道がこの平地に通じており、沿線に熊坂・柄山(からやま)の集落がある。なお、熊坂地籍から東へ古海川沿いに古海村へ、南へ野尻村本道(ほんどう)を経て野尻宿へ通ずる山路がある。この地は平安・鎌倉時代から信越国境の交通上の要衝として京にも知られていた。 熊坂村くまさかむら 神奈川県:愛甲郡愛川町熊坂村[現在地名]愛川町中津(なかつ)・春日台(かすがだい)一―五丁目半縄(はんなわ)村の北にあり、東を相模川、西を中津川が流れる。小田原衆所領役帳には津久井衆内藤左近将監「三拾貫文 東郡八菅熊坂村」とある。正保国絵図はこの付近を「下川入」と記している。元禄郷帳では八菅(はすげ)・半縄、棚沢(たなざわ)・下川入(しもかわいり)(現厚木市)の各村と並んで「熊坂村」と記している。一七世紀前期頃までは、相模・中津両河川の流路に挟まれた下川入地区と広称されていた地域の一部であるが、一六世紀の中頃には、すでに八菅熊坂村として広い下川入からは独立的な立場、または傾向にあったものと考えられる。 熊坂村くまさかむら 福井県:坂井郡金津町熊坂村[現在地名]金津町熊坂加越山地末端部の小盆地にあり、金津宿より東方に分れ、北陸街道とは別に牛(うし)ノ谷(や)峠を通って加賀へ抜ける道沿いにある。枝村として「越前地理指南」は初手・別所(べつしよ)・堂(どう)村、「越前国名蹟考」は熊井(くまい)・西出(にしで)を記す。中世には奈良興福寺領河口(かわぐち)庄の地。応永五年(一三九八)成立の大乗院河口庄田地引付(大乗院文書)に収める弘安一〇年(一二八七)の注進に河口庄細呂宜(ほそろぎ)郷のうちとして「小熊坂別所五丁一反三百五十歩一石二斗代」とみえる「小熊坂」、「大乗院寺社雑事記」文明一二年(一四八〇)八月三日条に載せる挿絵の「細呂宜上方」の東端に記される「熊郷小熊坂」は当地をさすと考えられる。 熊坂村くまさかむら 石川県:加賀市熊坂村[現在地名]加賀市熊坂町大聖寺(だいしようじ)町の南西、大聖寺川に流入する熊坂川に沿い、上流から石坂(いしざか)・北原(きたはら)・畑岡(はたおか)・庄司谷(しようじだに)・吉岡(よしおか)・花房(けぶそ)・花房出村の七小村からなる。牛(うし)ノ谷(や)峠を越えて越前へ抜ける道が熊坂川沿いに通り、越前熊坂村(現福井県金津町)に至る。正保郷帳によると高一千七六二石余、田方八八町二反余・畑方二一町八反余、物成高八三一石余で、江沼(えぬま)郡中最大の村高を有する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by