平安末~鎌倉初期の武将。平忠盛の子,母は池禅尼藤原宗子。平清盛の弟。六波羅の居館池殿(いけどの)にちなみ〈池殿〉〈池大納言〉と称される。常陸,安芸,三河の国守を歴任。保元・平治の乱では兄清盛に従って後白河天皇方として参戦。恩賞として尾張守に遷任,のち越前,尾張,紀伊,加賀,佐渡を知行(ちぎよう)。後白河院庁別当。また八条院の乳母の娘宰相局(さいしようのつぼね)(後白河院近臣の僧俊寛の姉妹)を妻とした関係から,八条院ときわめて近い関係にあった。この八条院および後白河院と密接な関係にあったことが,平家一門の中での頼盛の立場を微妙なものとした。すなわち平治の乱後,頼盛は一族中に強い発言力を有した池禅尼の子息として,嫡子清盛,嫡孫重盛につぐ地位を得ていたが,清盛,後白河院の対立が先鋭化するころから一門の中で反主流の行動をとるようになり,1179年(治承3)11月の清盛のクーデタでは,後白河院に近いとして解官され,一時は清盛が頼盛を討つとの噂さえひろまった。翌年頼盛は政界に復帰するが,83年(寿永2)7月の都落ちには途中から京へ帰って一門と同道せず,八条院のもとに身を寄せた。同年11月頼盛は鎌倉の源頼朝のもとに出現し,翌84年(元暦1)6月まで同地に滞在。この間に没官された旧領の返付を受け,頼朝には朝廷干渉の情報を提供したらしい。京に帰って本位本官に復したのち85年(文治1)5月出家,法名重蓮。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安後期の武将。父は平忠盛(ただもり)。母は池禅尼(いけのぜんに)こと藤原宗子。平清盛(きよもり)の異母弟。正二位、権大納言(ごんのだいなごん)まで上り、池大納言ともよばれた。清盛とは不仲であったらしく、1183年(寿永2)平氏西走の際にも都に残留。その後、鎌倉に下り、源頼朝(よりとも)の厚遇を受けた。平治(へいじ)の乱(1159)の際、母の池禅尼が頼朝の助命をしたためといわれる。84年本官に還任し、所領も返還された。同年帰洛(きらく)。翌年出家して重蓮と号す。文治(ぶんじ)2年6月2日死去。
[樋口州男]
…以仁王(もちひとおう)の子女を庇護し,80年(治承4)以仁王の挙兵のさい,その子を追捕(ついぶ)すべく平家の軍勢は女院の居宅を囲んだ。また平家一門の都落のさい平頼盛を保護し,九条兼実も接近を図っている。墓は京都市右京区鳴滝中道町にある。…
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