平頼盛(読み)タイラノヨリモリ

デジタル大辞泉 「平頼盛」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐よりもり〔たひら‐〕【平頼盛】

[1131~1186]平安末期の武将。忠盛の子。その住居を池殿といい、池の大納言と称した。母、池禅尼源頼朝を救ったので、平氏敗北後も鎌倉に招かれて厚遇されたが、平氏滅亡後出家した。法名、重蓮。

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精選版 日本国語大辞典 「平頼盛」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐よりもり【平頼盛】

平安末期・鎌倉初期の武将。忠盛の第五子。清盛の異母弟。正二位権大納言。その居を池殿といい、池の大納言と称した。母池禅尼が頼朝の命を救けた功により、平氏滅亡後も所領安堵(あんど)された。長承元~文治二年(一一三二‐八六

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改訂新版 世界大百科事典 「平頼盛」の意味・わかりやすい解説

平頼盛 (たいらのよりもり)
生没年:1132-86(長承1-文治2)

平安末~鎌倉初期の武将。平忠盛の子,母は池禅尼藤原宗子。平清盛の弟。六波羅の居館池殿(いけどの)にちなみ〈池殿〉〈池大納言〉と称される。常陸安芸,三河の国守を歴任。保元・平治の乱では兄清盛に従って後白河天皇方として参戦。恩賞として尾張守に遷任,のち越前,尾張,紀伊,加賀,佐渡を知行(ちぎよう)。後白河院庁別当。また八条院乳母の娘宰相局(さいしようのつぼね)(後白河院近臣の僧俊寛の姉妹)を妻とした関係から,八条院ときわめて近い関係にあった。この八条院および後白河院と密接な関係にあったことが,平家一門の中での頼盛の立場を微妙なものとした。すなわち平治の乱後,頼盛は一族中に強い発言力を有した池禅尼の子息として,嫡子清盛,嫡孫重盛につぐ地位を得ていたが,清盛,後白河院の対立が先鋭化するころから一門の中で反主流の行動をとるようになり,1179年(治承3)11月の清盛のクーデタでは,後白河院に近いとして解官され,一時は清盛が頼盛を討つとの噂さえひろまった。翌年頼盛は政界に復帰するが,83年(寿永2)7月の都落ちには途中から京へ帰って一門と同道せず,八条院のもとに身を寄せた。同年11月頼盛は鎌倉の源頼朝のもとに出現し,翌84年(元暦1)6月まで同地滞在。この間に没官された旧領の返付を受け,頼朝には朝廷干渉の情報を提供したらしい。京に帰って本位本官に復したのち85年(文治1)5月出家,法名重蓮。
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朝日日本歴史人物事典 「平頼盛」の解説

平頼盛

没年:文治2.6.2(1186.6.20)
生年:長承1(1132)
平安末・鎌倉初期の武将。忠盛の5男。清盛の異母弟。母は藤原宗兼の娘宗子,のちの池禅尼。六波羅の池殿に住んだので,池殿・池大納言などと称された。保元1(1156)年,正五位下常陸守のとき保元の乱がおこり,兄清盛と共に後白河天皇方について戦い,安芸守,次いで三河守に補される。平治の乱にも参戦するが,特に乱の直後,母の池禅尼が源頼朝の助命を清盛に嘆願して一命を助けた話は有名。後白河法皇,八条院らとも緊密な関係にあったため,昇進は順調で,右馬頭,内蔵頭,大宰大弐などを経て,仁安1(1166)年従三位となり,その後も累進し,極官は正二位権大納言にまでのぼった。しかし,清盛との仲は必ずしもよくなく,また清盛と後白河法皇との対立が激しくなるにつれて,平家一門内における頼盛の政治的立場は苦しいものとなり,治承3(1179)年11月の政変では,清盛によって権中納言・右衛門督の地位を解官されたほどであった。この措置は,翌年1月に解除され,もとの官職に還任するが,一門内での頼盛の特異な立場が変わったわけではなかった。やがて,寿永2(1183)年7月,平家都落ちに際しては,一門と行動を共にせず,途中から帰京して後白河法皇の庇護を求め,八条院のもとに身を寄せた。同年8月解官されるが,木曾義仲の追及をのがれるため鎌倉に下向した。頼朝は,頼盛の母池禅尼に助命された恩義に報いるため厚遇し,翌年4月,平家没官領のうちから,もと頼盛の所領であった34カ所の荘園を返付し,さらに朝廷に頼盛を本位本官に復するよう奏請した。これにより,6月に正二位・権大納言に還任されて帰京したが,しかし,12月にはそれを辞して,息子光盛の左近衛少将を申任している。文治1(1185)年5月,出家して重蓮と号し,翌年没した。<参考文献>安田元久『平家の群像』

(田中文英)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平頼盛」の意味・わかりやすい解説

平頼盛
たいらのよりもり

[生]天承1(1131).京都
[没]文治2(1186).6.2. 鎌倉
平安時代末期の武将。平清盛の異母弟。父は忠盛。母はかつて平治の乱後に清盛に頼んで源頼朝らの命を救った池禅尼 (いけのぜんに) 。治承4 (1180) 年正二位,寿永2 (83) 年権大納言。平家一門の都落ちに際し,後白河法皇のもとに隠れた。頼朝も,池禅尼のこともあり頼盛を厚く遇し,元暦1 (84) 年鎌倉に招いた。同年復官。文治1 (85) 年出家,法名は重蓮。彼の邸宅を池殿といったのにちなんで池大納言と呼ばれた。幼時,平家伝来の宝刀「小烏 (こがらす) 」「抜丸 (ぬけまる) 」のうち「小烏」を望んだが,父忠盛が「小烏」を清盛に,「抜丸」を頼盛に与えたため,以後清盛と不仲になったと伝えられる。

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百科事典マイペディア 「平頼盛」の意味・わかりやすい解説

平頼盛【たいらのよりもり】

平安末期の武将。忠盛の子。清盛の異母弟。母池禅尼(いけのぜんに)が源頼朝を助けたことがあり,平氏滅亡後に没収された旧領の返付を受けた。
→関連項目国富荘小犬丸保信太荘

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平頼盛」の意味・わかりやすい解説

平頼盛
たいらのよりもり
(1133―1186)

平安後期の武将。父は平忠盛(ただもり)。母は池禅尼(いけのぜんに)こと藤原宗子。平清盛(きよもり)の異母弟。正二位、権大納言(ごんのだいなごん)まで上り、池大納言ともよばれた。清盛とは不仲であったらしく、1183年(寿永2)平氏西走の際にも都に残留。その後、鎌倉に下り、源頼朝(よりとも)の厚遇を受けた。平治(へいじ)の乱(1159)の際、母の池禅尼が頼朝の助命をしたためといわれる。84年本官に還任し、所領も返還された。同年帰洛(きらく)。翌年出家して重蓮と号す。文治(ぶんじ)2年6月2日死去。

[樋口州男]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平頼盛」の解説

平頼盛 たいらの-よりもり

1132-1186 平安時代後期の武将。
長承元年生まれ。平忠盛の5男。母は池禅尼(いけのぜんに)。平清盛の異母弟。正二位,権(ごんの)大納言にのぼり,通称は池大納言。清盛と不仲で,平家一門の都落ちの際も,途中でもどり後白河法皇をたよった。のち源頼朝により所領を返還され,官位も復したが,元暦(げんりゃく)2年出家して重蓮と号した。文治(ぶんじ)2年6月2日死去。55歳。

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世界大百科事典(旧版)内の平頼盛の言及

【八条院】より

以仁王(もちひとおう)の子女を庇護し,80年(治承4)以仁王の挙兵のさい,その子を追捕(ついぶ)すべく平家の軍勢は女院の居宅を囲んだ。また平家一門の都落のさい平頼盛を保護し,九条兼実も接近を図っている。墓は京都市右京区鳴滝中道町にある。…

※「平頼盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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