菅生石部神社(読み)スゴウイソベジンジャ

デジタル大辞泉 「菅生石部神社」の意味・読み・例文・類語

すごういそべ‐じんじゃ〔すがふいそべ‐〕【菅生石部神社】

石川県加賀市にある神社祭神は菅生石部神。通称、敷地天神加賀国二の宮

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精選版 日本国語大辞典 「菅生石部神社」の意味・読み・例文・類語

すごういそべ‐じんじゃすがふいそべ‥【菅生石部神社】

  1. 石川県加賀市大聖寺敷地町にある神社。旧国幣小社。祭神は菅生石部神。用明天皇元年の創建と伝える。加賀国(石川県)二の宮。菅生天神。敷地天神。菅生宮。

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日本歴史地名大系 「菅生石部神社」の解説

菅生石部神社
すごういそべじんじや

[現在地名]加賀市大聖寺天神下町

大聖寺だいしようじ川の北岸、敷地天神しきじてんじん山の山麓に鎮座。祭神は菅生石部神で、「延喜式」神名帳の江沼えぬま郡「菅生スカフノ石部神社」に比定される。旧国幣小社。中世には菅生天神と称され、戦国期以降は敷地天神ともよばれた(「言継卿記」天文一四年八月二五日条)

社伝では用明天皇元年の創建という。「三代実録」元慶七年(八八三)一二月二八日条に菅生神がみえ、正五位下に進階している。天慶三年(九四〇)正月一五日には正四位下に昇叙(日本紀略)。康和五年(一一〇三)六月一〇日の神祇官奏(朝野群載)には「菅生石部神」とみえ、過って神事を穢したため中祓を科されている。「平家物語」巻七(篠原合戦)によれば寿永二年(一一八三)五月、木曾義仲が「すがうの社」に「のみの庄」を寄進、「源平盛衰記」巻四には安元三年(一一七七)二月、白山中宮の衆徒らが加賀目代藤原師経を糾弾するため神輿を奉じて上洛の途次、「須河社」に立寄ったとある。また同書巻四六に文治元年(一一八五)九月、能登に配流される平時忠が参詣したとある「加賀国菅川社」も当社のことであろう。「平戸記」仁治三年(一二四二)一二月二一日条に、民部卿平経高が関白二条良実に「菅生社神宝功人」の件について指示を仰いだことがみえる。同二四日には再度「加州菅生社神宝功人事」を関白に申入れ、同二五日の除目で「菅生社神宝功」により藤原頼定が左衛門尉、藤原実盛が右兵衛尉にそれぞれ任官した(同書)。当社の神宝が新調されたのであろう。「白山之記」によると加賀国二宮に位置付けられていた。

中世以降は菅生天神とよばれるが、これは鎮座地を含む一帯に成立した福田ふくだ庄が京都北野社領となったため、北野天神を庄鎮守として新たに合祀したことによる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅生石部神社」の意味・わかりやすい解説

菅生石部神社
すごういそべじんじゃ

石川県加賀市大聖寺(だいしょうじ)敷地町に鎮座。通称敷地天神。菅生石部神を祀(まつ)る。社伝では用明(ようめい)天皇1年、当地に疫病が流行し、その鎮護のため祀ったのを創祀(そうし)とする。883年(元慶7)正五位下を授けられ(三代実録)、940年(天慶3)正四位下に。延喜(えんぎ)式内社といわれ加賀二宮(にのみや)。木曽義仲(きそよしなか)が当社に「のみ(野美)の庄(しょう)」を寄進した(平家物語)のをはじめ、武家の信仰厚く、江戸期には金沢の前田家や大聖寺藩の崇敬を集めた。旧国幣小社。例祭日2月10日に行われる御願(ごがん)神事(竹割祭)は勇壮な魔除(まよ)け神事として有名。社宝に蒔絵(まきえ)角赤手箱(国重要文化財)などがある。

[平泉隆房]

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百科事典マイペディア 「菅生石部神社」の意味・わかりやすい解説

菅生石部神社【すごういそべじんじゃ】

石川県加賀市大聖寺天神下町に鎮座。旧国幣小社。菅生天神・敷地天神とも。菅生石部神をまつる。6世紀用明天皇の時の鎮祭と伝える。延喜式内社とされ,加賀国の二宮。例祭は2月10日で,当夜御願(ごんがん)神事が行われる。

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