日本歴史地名大系 「牧平村」の解説 牧平村まきひらむら 愛知県:額田郡額田町牧平村[現在地名]額田町牧平男(おと)川支流の鹿勝(かがつ)川・寺前(てらまえ)川・西野(にしの)川が村域内を北東へ流れて男川に合流する。集落は男川左岸に立地。東は鹿勝川(かがつかわ)村と細野(ほその)村、西南は鶇巣(とうのす)村(現岡崎市)と各々山で接し、西北は樫野山(かしのやま)村と男川および山で接する。字大門の豊富(たいもんのとよとみ)神社所蔵の長承三年(一一三四)の棟札に「長承三年臘天十八日 奉請深沼大明神 白髭大明神 勧請主三井公件敬白 神主三浦主膳正」とある。裏面に「神宮開山公件上人」「坊宮鶇野宮内少輔、三井大膳」の名がある。また明応二年(一四九三)の棟札に「明応二年三月十一日 奉再建深沼大明神 神主三浦主馬 社人宮内大徳 七ケ所氏子中」とある。七ヵ所は不明であるが近隣に集落の存在したことが知られる。中世、男川(おとがわ)庄に属したという。戦国末期には甲斐国武田氏の勢力が及んでいた。村域東方の小金(こがね)城主は菅沼正と伝える。深沼(ふかぬま)大明神の神主三浦鬼藤治・同鬼藤五兄弟は元亀(一五七〇―七三)頃から天正三年(一五七五)長篠(ながしの)の戦までは武田方に属したという(村誌)。 牧平村まきだいらむら 山梨県:東山梨郡牧丘町牧平村[現在地名]牧丘町牧平西保中(にしぶなか)村の西に位置し、赤芝(あかしば)川が鼓(つつみ)川に合流する地点に立地する。北は西保北原(にしぶきたばら)村。西保入四ヵ村の一。枝郷に下(しも)組・膝立(ひざたち)組・赤芝組がある(甲斐国志)。慶長古高帳に村名がみえ、高二〇六石余、幕府領。ほかに大明神(現神明神社)領二石余がある。領主の変遷は千野々宮(ちののみや)村に同じ。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では高二五八石余、反別は田はなく、麻畑二町余・上畑二町余・中畑四町三反余・下畑六町七反余・下々畑九町三反余・山畑一二町九反余、屋敷二町余。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では高二五九石余、うち前々改出・新田高役引五二石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by