狩野庄(読み)かののしよう

日本歴史地名大系 「狩野庄」の解説

狩野庄
かののしよう

古代田方郡狩野郷(和名抄)を継承した庄園。庄域は狩野川水源の天城あまぎ山北麓から同川を中央に挟んだ現修善寺しゆぜんじ町、右岸の現大仁おおひと町、左岸の現伊豆長岡いずながおか町の一部なども含んだ同川上・中流域一帯。文治四年(一一八八)五月一二日の後白河上皇院宣(「吾妻鏡」同年六月四日条)に庄名がみえ、京都蓮華王院(三十三間堂)領であった。同院は後白河法皇の御願寺で、平清盛を造営奉行として長寛二年(一一六四)建立された。立庄は保元の乱の頃と考えられる。

室町時代の八月一〇日付力石右知書状(三嶋大社文書)に「三福郷事、狩野庄六郷」とみえ、当時庄内には少なくとも六郷あった。それぞれの名称は不明であるが、そのうちの一つは三福みふく(現大仁町)である。そのほか庄内の郷としては、まき(現修善寺町、「吾妻鏡」嘉禎元年八月二一日条)田代たしろ(現修善寺町、暦応三年五月一七日「足利直義下知状案」田代文書)田中たなか(現大仁町、正平一四年一〇月二日「石塔範茂書下」伊東文書)大平おおだいら(現修善寺町、永禄一〇年五月五日「彦山書下写」宮内文書)が知られる。村としては狩野牧(「吾妻鏡」嘉禎元年八月二一日条)熊坂くまさか(現修善寺町、観応三年三月二六日「伊豆守護畠山国清書下」相模文書)槻瀬つきがせ(現天城湯ヶ島町、永正九年一一月二六日「棟札銘」聖神社蔵)櫟山いちやま(現同上、天文三年九月二三日「棟札銘」市山神社蔵)まつ村・松瀬村(現同上、天文五年九月一九日「棟札銘写」・同二一年一一月一五日「棟札銘写」軽野神社蔵)がみえる。

狩野庄
かののしよう

足柄あしがら峠を東に下る街道の左右、かり川流域一帯にあった荘園で、現南足柄市狩野・苅野かりのが遺称地。苅野庄とも記す。建長四年(一二五二)宗尊親王の鎌倉下向に際して、宿駅設営の責任者に「せきもと かののしんざゑもん」がみえる(宗尊親王鎌倉御下向記)。狩野氏は在地の豪族で、荘の成立にもかかわったものかもしれないが、荘園としては暦応四年(一三四一)八月七日の摂津親秀大間帳(県史三)に「相模国狩野庄」とみえ、親秀が養子宇都宮三河入道子息に「狩野庄内大和田大久畠但除宿在家」、同じく養子の佐々木中沢五郎子息に「狩野庄内田地」を譲っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報