日本歴史地名大系 「生谷村」の解説 生谷村おぶかいむら 千葉県:佐倉市生谷村[現在地名]佐倉市生谷・染井野(そめいの)一―七丁目・王子台(おうじだい)一―六丁目手繰(たぐり)川右岸に位置し、西対岸は下志津(しもしづ)村・畔田(あぜた)村、東は飯郷(いいごう)村・飯重(いいじゆう)村。元禄郷帳はヲボカヤと訓を付す。もとは葛飾(かつしか)郡のうちとされていた。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に生ヶ谷村とみえ、高二五〇石、三町の普請を割当てられている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では印旛(いんば)郡に属し、高二八八石、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚でも同高で、夫役永七五〇文・野銭金四両・山銭鐚一六貫九二六文。 生谷村いぎだにむら 兵庫県:宍粟郡山崎町生谷村[現在地名]山崎町生谷揖保(いぼ)川の支流伊沢(いさわ)川の下流左岸に位置し、東は三津(みつづ)村、対岸は庄能(しようのう)村など。生谷の生を「いぎ」と発音するのは事の始まりを意味し、蔦沢(つたざわ)の谷の始まる地に立地するのが村名の由来といわれる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方二〇石余・畠方四四石余。下村氏手控帳を寛保三年(一七四三)に写した西村氏手控帳(西村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高八六石余、田一町三反余・畑八町七反余、小物成銀一三匁(楮役九匁余・茶役三匁余・漆役八分余)・桑役(真綿)一〇〇匁、家数一五・人数九〇、牛一五。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by