山崎村(読み)やまさきむら

日本歴史地名大系 「山崎村」の解説

山崎村
やまさきむら

[現在地名]山川町 宮島みやじま忌部いんべ雲宮くもみや祇園ぎおん坂田さかた忌部山いんべやま山路やまじ東麓ひがしふもと西麓にしふもと岩戸いわと天神てんじん堤外ていがい堤内ていない流本ながれもと宮北みやきた中須賀なかすが西久保にしくぼ

現山川町域の北東端、東流する吉野川の右岸に位置し、西は瀬詰せづめ村、南は種野たねの山、東はがく(現川島町)など、吉野川を挟んで北は阿波郡伊沢いさわ(現阿波町)。地内の忌部・忌部山は古代の麻殖おえ郡忌部郷(和名抄)の遺称地とされる。また忌部山に鎮座する山崎忌部やまさきいんべ神社は、大嘗会において木綿や麁布等を貢進した阿波忌部氏の祖神天日鷲命を祀り、「延喜式」神名帳に載る麻殖郡の名神大社忌部神社の論社の一つ。正慶元年(一三三二)一一月日の阿波国御衣御殿人契約状写(三木家文書)によると、三木氏村など阿波忌部氏の一党は、一族の結束を固めるため二月二三日と九月二三日の年二回寄合を開くことを決め、二月二三日の会合は「やまさきのいち」で行うと定めている。なおこの山崎市(忌部市)は山崎忌部神社の近くで開かれていたと伝える。

慶長二年(一五九七)の分限帳には林与右衛門(能勝)知行分のうちに山崎高七一一石余とある。正保国絵図では山崎村とあり、高七八五石余。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]宮之城町山崎

宮之城郷船木ふなき村の南西、南西流する川内せんだい川南東岸にある。北部で西流してきた久富木くぶき川が川内川に合流する。近世には山崎郷の麓村で北東は同郷久富木村、西は川内川を挟んで同郷二渡ふたわたり村、南は薩摩郡副田そえだ(現入来町)倉野くらの(現樋脇町)など。船木村から南下して山崎城跡北方えごん口の渡で川内川を渡る川内への道が南西へ、同道から分れて地頭仮屋前をほぼ南北に入来いりきへの道が通っていた。享徳元年(一四五二)島津氏によりけどう院内の検田が行われた際、九月一日に時吉穴ときよしあな川口から始められた検田は一〇月二〇日までの間に山崎など各所を終えている(寛永五年「平徳重覚書」町田氏正統系譜)。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)には答院分として山崎がみえる。これは川内川東岸にあった山崎城をさす。当時同城は渋谷氏系答院氏の支流山崎氏が拠点としていたとみられる(「答院記」など)。同一七年には守護島津方の軍勢が答院内に侵攻(文明大合戦)し、九月八日に島津方は当地南部久富木境のまき(現牧之峰)を拠点として答院氏方の当地や久富木を攻撃した。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]湯布院町川南かわみなみ 山崎

石松いしまつ村の西、大分川左岸の扇状地に位置する。当地はシバセキ(柴石)ともよばれているように化石の産出で知られる。この辺りが太古の昔、川か湖の底であったことを物語る。中世の山崎名の遺称地。

〔中世〕

建武四年(一三三七)一二月一六日の沙弥重慶奉書写(右田文書)によれば、「由布院山崎名内八郎屋敷田地」を右田小三郎盛家に預けたことを山崎名の地頭代官に連絡している。文和三年(一三五四)一〇月一六日に戸次浄心(重親)は家領を大友惣領大友氏時に譲っているが、そのなかに由布院ゆふいん内山崎名がみえる(「戸次浄心安堵申状案」大友文書)。先の地頭代官は戸次氏の代官であり、右田氏は戸次氏から「山崎名内八郎屋敷田地」を預けられたと考えられる。延文三年(一三五八)には山崎名代官職が右田孫太郎盛直に宛行われているが(同年一〇月一〇日「僧玄妙奉書写」大倉氏採集文書所収右田文書)、まもなく没収され、貞治二年(一三六三)一二月には右田盛直は目安を捧げ、竹中禅門(戸次浄心か)の恩により山崎・石松両名を賜ったが、山崎名を召上げられると十分な奉公ができないので、山崎名の替りを宛行われるように願出ている(「右田盛直目安状写」同文書)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]大郷町山崎

大谷おおや郷の東部、品井しない沼の南岸に位置する。南部は丘陵、北は吉田川と品井沼の野谷地に続く水田。西境を北流する味明みあけ川が北境を東流する吉田川に合流し沼地に入る。北は志田郡大迫おおばさま(現鹿島台町)、東は不来内こずない村、南は味明みやけ村、西は羽生はにゆう村。道は東・南・西の隣村に通ずる小道のみである。先史時代は品井沼の水際が北面する台地の裾まで覆い、中世頃からしだいに湿原と化したと推定される。東境の鳥屋場とやば山に縄文中期の土器を出土する遺跡があり、西南境に奈良・平安初期の須恵器・土師器を出土する熊野神社遺跡がある。中世初期の作と推定される銅製阿弥陀如来像を蔵する阿弥陀堂が中央部台地の突端にあり、また、南部御堂仮屋敷みどうかりやしきに正安元年(一二九九)と嘉元三年(一三〇五)建立の供養碑(板碑)がある。北部湿原へ中部から突出する台地上には、時代不明であるが金沢長門守がいたと伝える花楯はなだて大楯おおだて小館丸こだてまると連係する館跡がある(古城書立之覚・黒川郡誌)


山崎村
やまざきむら

[現在地名]国見町山崎

北にほぼ東西に三つの頂をもつ丘陵が横たわり、その南に平地、さらに南にある源宗げんぞう山で藤田ふじた村に接する。丘陵裾野辺りをたき川が東流し、さらに南流して森山もりやま村に入る。また、小坂こさか村より流れてきた西根上にしねうわ堰は、藤田村に接して北上し石母田いしもだ村に流れる。村名は山の前にあることによるという(明治一四年「山崎村誌」国見町史)。字小林西こばやしにしの周辺には、平安時代初め頃と推定される条里の遺構が近年まで残されていた。天文七年(一五三八)の段銭古帳に、伊達西根のうちとして「山さき」とみえ、段銭は一一貫四一〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録では「伊たて西ね山さきのかう」のうち「まんふくし分」「野田六郎分まやなきさいけ」などが山崎彦七に安堵されている。山崎氏が住んだとみられる館跡は、字中島なかじまにある。鹿股家譜(梁川町史)には、鹿股氏は伊達尚宗より山崎村などを与えられたとみえる。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]祖父江町山崎

東は萩原はぎわら川、南は領内りようない川、西は下祖父江しもそぶえ村に接する。「尾張国地名考」には、「この村大村なり、幾切にもありて輪のごとく周旋して其中に広き田圃あり、此をもて小名は枝村に似たり」として本郷ほんごう明島あけじま枇杷首びわくび鶴塚つるづか才蔵野さいぞうの舟橋野ふなばしの大塚おおつか塚原つかはらをあげる。文化九年(一八一二)の尾張国地理図鑒は、さらに中屋敷なかやしき・上屋敷をあげ、下枇杷首・中枇杷首と分けている。これらは小字と考えられる。

天保村絵図には塚原、山崎方やまざきがた甲山崎方かぶとやまざきがたともいう)の枝郷二ヵ所をあげ「塚原瀬古江本村より道法拾壱町隔 右瀬戸東西四町南北弐町半余方角丑寅ニ当ル」とあって明治九年(一八七六)玉野たまの(現尾西市)へ編入された。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]雄踏町山崎

宇布見うぶみ村の北西に位置し、北は小人見こひとみ(現浜松市)、南・西は浜名湖に面する。天保国絵図によれば半島状を呈し、当村の南には島状に塩浜が描かれている。大永二年(一五二二)五月、連歌師柴屋軒宗長が駿河から越前に向けての旅行の途次に浜松に逗留した際、山崎より引佐細江いなさほそえまで船で遊覧し、浜名備中守(政明)の館では連歌の会が行われた(宗長日記)。永禄九年(一五六六)二月一〇日、松平家康(徳川家康)が山崎塩浜五〇貫などを江馬時成に与えている(「松平家康判物写」紀伊国古文書所収藩中古文書)。同年四月二一日には今川氏真が山崎郷一五〇貫文などを江馬泰顕・時成に与えた(「今川氏真判物写」同古文書)。天正一二年(一五八四)二月八日、名倉若狭が代官中村正豊に前年の年貢未進分を催促するために作成した宇布見年貢勘定帳(中村文書)に「山崎塩年貢かぢ分」七貫六五〇文、「塩年貢山崎国方」一〇貫二〇文、「塩年貢山崎地頭方」八貫一〇〇文などがみえる。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]南区山崎町・汐田しおだ町・岩戸いわと町・菊住きくすみ町・呼続元よびつぎもと町・朝拝ちようはい町・新郊しんこう通・駈上かけあげ町・呼続町・青峯あおみね通・宮崎みやざき

山崎川と天白てんぱく川に挟まれた地に開けた村。北は山崎川を隔てて中根なかね村・本井戸田ほんいどた(現瑞穂区)、東は天白川を隔てて野並のなみ(現天白区)に接する。村の東部は新屋敷しんやしき村が入込んでいる。みや宿(現熱田区)を出た東海道が北から南へ抜け、集落は街道沿いに集中している。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]茂原市山崎・みどりおか

押日おしび村の南西に位置し、同村との境の当村北東端を伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通り、それに並行して豊田とよだ川が流れる。当村は埴生はぶ郡の飛地として長柄ながら郡内にあったとされるが(上総国町村誌)、郷帳類では長柄郡所属となっている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に長柄郡山崎村とみえ、高四一二石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では埴生郡所属で高四二八石余、旗本山寺領、家数九一。寛文元年(一六六一)に山寺領となったと考えられ(寛政重修諸家譜)、領主は以後変化なく幕末に至ったとみられる。


山崎村
ざきやまざきむら

[現在地名]境町山崎

鵠戸くぐいど(現在は水田)の枝ヤトに東と西を限られた台地に所在。南は内門うちかど村。北部の字喜五郎きごろうと南部の字井草いぐさには溜池があり、周囲の一部は湿地帯であった。また入ヤトが村域中央まで延びている。戦国期に結城氏朝の家臣であった赤荻若狭・野村五右衛門が当村に落民している(落民士帳)

江戸時代は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえる。猿島郡上郷に属した。早くから新田開発が行われたため本田組と新田組に分れ、それぞれに名主・組頭が置かれた。名主二人制は天保(一八三〇―四四)頃までで、のち名主休役騒動が起こり、名主一人制となった(逆井家文書)


山崎村
やまざきむら

[現在地名]石和町山崎

山梨郡万力まんりき筋の南端に位置し、笛吹川が山地から平坦地に流れ出る場所にある。山埼とも表記される(甲斐国志)。東は国府こう村、北は鎮目しずめ(以上現春日居町)、南は笛吹川を隔てて八代郡八田はつた村。地内を駒沢こまざわ川が南西に、平等びようどう川が西に流れ、青梅おうめ往還が北東万力(現山梨市)方面へ向かっている。天正一一年(一五八三)閏正月一四日高林又十郎(昌重)に対し、山崎郷の棟別三間分免除が安堵されている(「徳川家康印判状写」記録御用所本古文書)。又十郎は「天正壬午起請文」には武田氏の近習衆とみえる。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]かつらぎ町山崎

紀ノ川中流域左岸の雨引あまびき山の北西斜面上にある。山崎の地名は、寛治三年(一〇八九)五月六日の散位坂上経澄解案(国立史料館蔵伊都郡古文書)に、経澄先祖相伝の地として「字山前」とみえるのが早い。貞和五年(一三四九)閏六月一一日の高野山衆徒預所職寄進状案(又続宝簡集)によれば、山崎郷預所職が高野山衆徒一同から丹生酒殿にうさかどの神社に寄進された。応永二六年(一四一九)九月日付の段銭棟別納日記(同集)によれば、当時、高野山領六箇七ろつかしち郷内小河内おごうち郷山崎として把握され、二三間分の棟別銭がかけられていた。同三一年一一月一一日の連署衆評定事書(同集)に「就山崎上村下村相論之事」とあり、当時上村・下村に分れ、両村間で相論が持上がっていたことがわかる。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]朝日町山崎

川左岸の山麓部にあり、北は殿との村、東は南保なんぼ村、西は山王さんのう村・細野ほその村・山崎新やまざきしん村、南は山地が広がる。通称羽入はにゆう辻岩崎つじいわさきこしぼう小在池こざいけ花房はなふさがあり、小川おがわ温泉のある湯の瀬ゆのせも当村に含まれる。「越中国船見・山崎両村」は文和二年(一三五三)清浄覚という者によって鎌倉円覚寺黄梅おうばい院に寄進され、二年後には不知行になっている(至徳元年四月日「黄梅院文書目録」黄梅院文書)。永正一〇年(一五一三)八月吉日には舟見ふなみ(現入善町)と当村一円の伊勢神宮の道者職が五貫文で売却されている(「道者売渡状」神宮文庫蔵輯古帳)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]豊野村山崎

東は浜戸はまど川で安見やすみ村・巣林すばやし村、西は山林で浦河内うらかわち村・萩尾はぎお(現松橋町)、南は下郷しもごう村・糸石いといし村に接する。北西部を中心に大半を山岳丘陵で占め、浜戸川が小熊野おぐまの川と合流する付近に小規模な低地が開ける。萩尾村境の萩尾大溜池東端とそれに続くあぶみはな溜池(鐙中堤・鐙上堤)があり、内野うちの瓦谷かわらたになどの溜池が多い。正平三年(一三四八)九月日の恵良惟澄軍忠状(阿蘇家文書)によれば、延元二年(一三三七)三月二二日、豊田とよだ庄に打入った惟澄の軍勢が「地下凶賊等」を追払ったところ、少弐氏の守護代と号する饗庭小太郎の軍勢が攻めてきたので「懸合山崎原、致散々合戦」、また興国四年(一三四三)頃に少弐頼尚が「取山崎向城之時」、惟澄が菊池武光とともに数度攻撃したとある。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]高松市東山崎町ひがしやまさきちよう

春日かすが村の南、西前田にしまえだ村の北西に位置し、高松平野の東寄り、春日川中流域の東側平野に立地。村内東部をしん川が北流する。久米くめ山丘陵から石鏃・石包丁・石斧、弥生式土器などが出土し、山頂には小円墳群がある。また諏訪すわ山や、茶臼ちやうす山の東西にも古墳がある。寛永国絵図では本山もとやま郷のうちに村名が載る。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では水田みずた・山崎とみえ高一千二六二石余。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]姫路市飾東町山崎しきとうちようやまさき

飾東郡に所属。あま川上流にある狭長な天川あまかわ(谷外内ともいう)の南寄りに位置し、東は八重畑やえばた村。長浜氏の在城した山崎構居があった(飾磨郡誌)。文禄三年(一五九四)一〇月一七日の入部御用銭割付状(芥田文書)に「高五百廿石 山崎しお崎村」、同年の飾東郡蔵入目録(同文書)に「四百八十九石六斗 山さき 塩さき」とみえる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方三六三石余・畠方三六石余。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]立花町山崎

現立花町域の北部に位置し、村北西部で矢部やべ川に辺春へばる川が合流する。永和元年(一三七五)一〇月二五日の今川了俊書下(佐田文書/南北朝遺文(九州編)五など)によれば、同年八月二九日の「山崎合戦」で宇都宮経景・長井貞広らが討死している。寛正六年(一四六五)黒木氏らが大友氏に背いた際、当地などが大友氏の攻撃を受けている(一〇月一七日「宝勝院光憧書状」大友文書/大分県史料二六)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]物部村山崎・上岡かみおか中津尾なかつお

大栃おおどち村の南東、槙山まきやま川と上韮生かみにろう川との合流点近く、槙山川両岸に展開する山村で、東から南は仙頭せんどう村に接する。「土佐州郡志」は「本尊・境村・高尾村・水通村・水口村・宮之前村・乗友・桑之川、惣曰山崎」と記す。大忍おおさと庄槙山郷に属し、天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳に高尾村・蔵用村・山崎村・専当村の合計として六町六反四一代(田分一町一反余・畠屋敷五町四反余)が記されるが、これは東南隣の仙頭村も含む合計で、山崎村分のみは不明。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]七尾市山崎町

富山湾へ注ぐ熊渕くまぶち川下流域に位置する。東の花園はなぞの村に集落が続き、南は越中氷見郡。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高三九四俵余が土方領。うち三割五分は百姓得分。同年土方陣屋が置かれた(能登志徴)。領主の変遷は八幡やわた村に同じ。正保郷帳では高二一二石余、田方八町余・畑方六町一反余。貞享四年(一六八七)の家数四五(うち役家二一)・人数三二一、牛馬五一(加賀藩史料)。元禄一一年(一六九八)の高二一二石余・免四ツ五歩、新田高三七石余・免三ツ九歩、小物成は山手米七石余・口米一〇石余・夫米五石余、高役銀一三一匁余・棟役銀一〇五匁・歩入銀二三匁余(「免付状」池岡文書)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]姫路市飾磨区山崎しかまくやまさき飾磨区城南町しかまくじようなんちよう一―三丁目・飾磨区英賀保駅前町しかまくあがほえきまえちよう飾磨区英賀春日町しかまくあがかすがちよう一―二丁目・飾磨区鎌倉町しかまくかまくらちよう飾磨区若宮町しかまくわかみやちよう飾磨区矢倉町しかまくやぐらちよう一―二丁目・飾磨区富士見しかまくふじみ丘町おかちよう飾磨区山崎台しかまくやまさきだい

飾西しきさい郡に所属。夢前ゆめさき川の下流左岸に位置し、南は英加あが村。村内北部に標高約八〇メートルの山があり、その南麓微高地に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方五八一石余・畠方七七石余。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]喜多方市慶徳町けいとくまち山科やましな

新宮しんぐう村の南、阿賀川北岸の山際に位置する。東はにごり川を隔てて田原たわら(現塩川町)、南は阿賀川を隔てて河沼郡青津あおづ村・宇内うない(現会津坂下町)。本村の北東に小名天神免てじめがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に山崎とみえ、高一八四石余。慶長一六年(一六一一)会津大地震による山崩れで当地付近の阿賀川が堰止められて山崎新湖が生れた。「新編会津風土記」「会津旧事雑考」などによると、会津藩主蒲生氏は数千人の人夫を動員して水を抜こうとしたがうまくいかず、当村を中心に東西四五町余、耶麻郡七ヵ村・河沼郡一六ヵ村の地が水底となったという。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]鎌倉市山崎・梶原かじわら三丁目・寺分てらぶん二―三丁目・だい一―二丁目

葛原くずはら岡から西北方に連なる丘陵の尾根の北斜面一帯に位置し、北は岡本おかもと村、東はだい村・山之内やまのうち村、南は梶原村、西は寺分村・上町屋かみまちや村に接する。丘陵の突端の天神てんじん山の出先にあるので山崎村と称したという。

「空華日用工夫略集」貞治六年(一三六七)三月一一日条に、関東公方足利基氏から鎌倉の万寿まんじゆ寺住職となるよう命ぜられた義堂周信が、これを受けず、円覚寺を出てひそかに山崎に隠れたとある。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]野田市山崎・山崎貝塚町やまざきかいづかちよう山崎梅の台やまざきうめのだい

花井はない新田・桜台さくらだい村の南に位置する。日光東往還が通り、同往還の継立場が置かれていた。南東の亀山かめやま新田は当村によって開かれた。地内の曹洞宗海福かいふく寺には暦応二年(一三三九)銘、同宗鏡円きようえん寺には宝徳二年(一四五〇)銘・長禄元年(一四五七)銘など多くの武蔵型板碑が残される。天正一八年(一五九〇)八月の徳川家康の関東入国に伴い譜代の岡部長盛が下総・上総両国に一万二千石を与えられ、当地に陣屋を置いたと伝える(寛政重修諸家譜)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]山崎町元山崎もとやまさき

山崎城下の北に接する。「寛文朱印留」に山崎町村、文化年間(一八〇四―一八)の地詰帳(山崎八幡神社文書)には元山崎村とみえる。天正一五年(一五八七)頃とみられる一一月一六日の木下勝俊判物(同文書)によると、「山崎村」に新町が申付けられており、城下形成の端緒となっている。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代初期にはほん町・西新にししん町の裏手にあたる北の筋を「上ノ丁」とよび、武家屋敷が置かれていた(播州宍粟郡守令交代記)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]国府町山崎

中河原なかがわら村の東、ふくろ川と上地わじ川の合流点付近に位置する。大江広元末流の毛利氏が代々土着し「法美郡所々大萱の末迄」支配してきたが毛利豊元によって天文年間(一五三二―五五)に絶滅したという(因幡民談記)。永禄一二年(一五六九)一二月二一日に作成された大萱郷米方算用状(因幡民談記)によれば「山崎名」のうち一八〇歩が河成として、毛利豊元の家臣たちに与えられた扶持分とともに並記されている。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]岡部町山崎

松久まつひさ丘陵の北東端にある山崎山(一一六・七メートル)とその北麓に開けた村で、東は藤治とうじ川を挟んで山川やまがわ村、西は児玉郡せき(現美里町)、北は後榛沢うしろはんざわ村・榛沢新田後榛沢村との境を志戸しど川が流れる。「風土記稿」によると、南の今泉いまいずみ村との境山上やまのかみに「鎌倉海道」と称されるところがあり、本庄から榛沢・当地を経てはり本郷ほんごう方面へ向かう中世の鎌倉街道の道筋にあたっていたと思われる。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]押水町山崎

宝達ほうだつ川が形成する扇状地の扇頂部にあり、西は河原かわら村、北は山地。正保郷帳の高一六七石余、田方五町・畑方六町一反余、免三ツ一歩一厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高一三五石、免三ツ九歩、新田高一石で、小物成は山役二五匁・苦竹役二匁、鳥役四匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細では高一四〇石、家数一七(うち頭振五)・人数六八、馬六、稼は蚕・苧。商売家は少なく嘉永五年(一八五二)の押水組巨細帳(近岡文書)では質屋一軒、楮蒸屋二軒、家建垣内は表川原(一軒)・山崎(一八軒)


山崎村
やまのさきむら

[現在地名]佐倉市山崎・鹿島干拓かしまかんたく

下根しもね村の南、鹿島川右岸に位置。南の佐倉城下と印西いんざい方面を結ぶ道が通る。永禄一三年(一五七〇)二月六日、千葉胤富は重臣原大炊助にかねてより紛糾中の山口代官の儀に関して「山崎之山」についてはまず「御中居」に指置かるべしとしているが(「千葉胤富判物」原文書)、当地の山をさすものか。

「寛永諸家系図伝」に「下総国山崎村」とみえ、寛永一〇年(一六三三)から同一六年まで旗本北条領であった。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]町田市山崎町・忠生ただお

野津田のづた村の南西にある。一帯は中世には山崎郷といった。元和元年(一六一五)の当村にかかわる年貢受取手形(河井家文書)に永二〇九文・永二五文(京銭)とある。寛永四年(一六二七)駿河国駿府藩主徳川忠長領となり、同八年の小山田領郷帳(三橋家文書)に村名がみえ、取米四四石余・取永一二貫三〇二文余。田園簿では田一二六石余・畑八七石余で旗本簗田領。延宝三年(一六七五)の検地では高四四三石余(「検地帳」町田市史)。元禄郷帳では高四三四石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本松平領一九五石余・同太田領二三八石余。宝暦六年(一七五六)の村明細帳(河井家文書)では幕府領二四八石余、旗本松平領内一九五石余、幕府領分の家数四四・人数二五八、馬二二で、木曾きそ村助郷とある。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]安城市山崎町・北山崎きたやまざき

碧海へきかい台地の先にあり、地形から生れた村名と思われる。南は上条じようじよう村、西は安城村・大岡おおおか村に隣する。枚田まいた庄大岡郷に属す。山崎遺跡は、碧海台地の東端にある矢作川洪積低地に面した平安時代の集落の一部。天文一六年(一五四七)織田信秀が山崎城を築く。同一八年三月、今川義元の将大原雪斉の安祥あんしよう城攻略の際、岡崎勢に一蹴され廃城となる。城跡は神明社境内にある。

寛永一三年(一六三六)の村高七七五石余、うち正法しようほう寺領四石八斗、白山社領一三二石二斗余。田は畑の二倍、田の年貢率は寛文七年(一六六七)六・六、同八年には八・一になる。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]金山町山崎

上台うわだい村の北にあり、羽州街道が南北に走る。北は金山七日町かねやまなのかまち村。新田本村鑑は枝郷として凝山にごりやま持越もつこえをあげる。両村は西方を南流する金山川対岸にある。元和八年(一六二二)の御前帳写では高六九石余、寛文四年(一六六四)には高七二石余、うち新田三石余(新田本村鑑)、文化元年(一八〇四)には高五五一石余、うち田方四一九石余、反別六二町三反余、うち田方三九町八反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数四四(うち借屋二)、人数一九六、駄馬一五・駒一八。明治三年(一八七〇)の郷村高帳によると諸職人運上銀七匁のほかに山・威鉄砲などの運上銀を上納している。金山宿の助郷村で、天保元年(一八三〇)の手伝人馬村割合覚(近岡文書)によれば同宿への寄人馬は年間で馬五四疋、人夫五六人。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]福崎町山崎

福田ふくだ村の北に位置し、神崎山(三三二メートル)の南麓、いち川右岸の河岸段丘の上下に立地する。神西じんさい郡に属し、東は市川を挟んで神東じんとう保喜ほき(現市川町)。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方四九三石余・畑方九〇石余、「芝山有・新田有」と注記される。天保郷帳では高七五〇石余。姫路藩山崎組の大庄屋後藤家の居住する村で、寛延二年(一七四九)の姫路藩領一揆では大庄屋文右衛門宅が打毀に遭っている(「寛延一揆姫路藩記録」前橋市立図書館蔵松平家文書)。文右衛門は一揆後、急度叱の刑を受けて大庄屋職を追われ(「寛延一揆罪科人仕置書」九州大学法学部蔵)、翌三年山崎組大庄屋は滝野組大庄屋の滝野たきの(現滝野町)九郎兵衛の兼帯となっている(「大庄屋勤方につき申渡」酒井家史料)


山崎村
やまざきむら

[現在地名]八郷町山崎

園部そのべ川上流にあり、北西はみやさき村。古代は「和名抄」記載の山前やまさき郷の本郷の地とされる。戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高九百九十弐石四斗 此内百四十四石弐斗四升 荒 山崎」とある。江戸時代は寛文四年(一六六四)以降牛久藩領で、元禄郷帳の村高は五九四石余、天保郷帳では七三二石余に増加する。

間々田ままだに旧村社春日かすが神社(祭神武甕槌命・天児屋根命・経津主命・天照大神)があり、慶長二年(一五九七)現在地に遷座と伝える。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]いわき市平山崎たいらやまざき

夏井なつい川下流右岸にあり、北対岸は中神谷なかかべや村、西は南白土みなみしらど村、南は菅波すぎなみ村、東は荒田目あつため村。磐前いわさき郡に属した。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高一五三石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高一二一石余。正保郷帳では田方五九石余・畑方一三二石余で、専称せんしよう寺領七〇石がある。元禄郷帳では高二六五石余で、専称寺領・如来によらい寺領がある。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]東伯町こがね

細工所さいくじよ村の南に位置する。拝領高は二一八石余。藪役銀一〇匁・川役銀一匁を課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高二三八石余、竈数一七。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数一七、うち余業七(木挽・綿売棒各二、石工・鍛冶屋・農業奉公各一)。文化一二年(一八一五)当村・公文くもん村・山田やまた村の三ヵ村と倉坂くらさか村との間で、同村領の草山をめぐって相論が起きている(在方諸事控)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]岡山市一宮山崎いちのみややまさき

今岡いまおか村の東、丘陵南麓にあり、東は東楢津ひがしならづ村の枝村西楢津、南は一之宮いちのみや村。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」によれば、当村の天神の祭に一宮(現吉備津彦神社)の「一ノミこ・延国・延安・延家」の四人が派遣されている。寛永備前国絵図に村名がみえ、高三六三石余。「備陽記」によると田畠二四町七反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高二九四石余、蔵入。家数二三・人数一七三、牛一六・馬三。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]南濃町山崎

上野河戸うえのこうず村の南、揖斐いび川右岸に立地。「和名抄」記載の石津いしづ郡山郷の遺称地とされる。弘治二年(一五五六)九月二〇日の斎藤高政安堵状(東高木文書)に山崎郷とみえ、高木貞久は同郷など六郷を高政(義龍)より安堵されている。慶長郷帳に村名がみえ、高二八二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳でも同藩領で、田一三六石余・畑一三五石余、山年貢一〇石。元禄郷帳では高三〇〇石余で同藩領。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]波野村中江なかえ 山崎

東流する山崎川に沿って南郷なんごう谷から豊後国竹田領に通じる竹田たけた往還が貫通する。東は仁田水にたみず村、西は坂梨さかなし(現一の宮町)、南は野尻手永の黒岩くろいわ(現高森町)、北は波野村と接する。阿蘇谷東郷の南坂梨みなみさかなし郷を本郷とする外輪山外側斜面にある小村。「野里」とよばれ、畠地生産物をおもな貢納物としている。貞和四年(一三四八)一一月七日の南坂梨郷屋敷得分注文案(阿蘇家文書)に「一所かみやまさきの一ねんちうのとくふんの事」「一所しもやまさきのふん」とあり、上下山崎より銭一千六〇文・稗・豆が納められている。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]遊佐町当山とうやま

下当しもと村の西にあり、鳥海山西側山麓から西流する洗沢あらいざわ川と高瀬たかせ川の間に位置する。中田浦なかだうら地蔵田じぞうでんには奈良―室町時代の集落跡がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二七五石余。寛永元年庄内高辻帳では高三六四石余。享和三年(一八〇三)には家数二〇・人数一一四(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。庄内要覧によれば免四ツ九分二厘、家数二五。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]生駒市山崎やまさき町・山崎新やまさきしん町の全域、およびもと町二丁目・ほん町・仲之なかの町・西旭にしあさひおか・東旭ヶ丘・新旭ヶ丘・門前もんぜん町の一部

生駒山東北麓、菜畑なばた村北方、竜田たつた川沿岸の村。慶長六年(一六〇一)の片桐市正知行書立(譜牒余録)には山崎村とみえるが、慶長郷帳に「一弐百八十三石八斗三升 中ノ宮村」とあるのは誤写であろう。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]青谷町奥崎おくさき

日置ひおき谷中央部の西山麓に位置し、北は小平田こひらた村、南は奥谷おくだに村、東は日置川を挟んで養郷ようごう村。拝領高は一八三石余、本免は五ツ九分。藪役銀六匁二分五厘が課せられ(藩史)、岩越氏・大竹氏・林氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数二四。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高二〇二石余、竈数一七。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]弥彦村山崎

西にし川左岸の井田いだ丘陵南西端にある。南西は山岸やまぎし村、北東は中山なかやま村。慶安元年(一六四八)までに開発され、本百姓一二軒の耕地はすべて開発名主高島四郎左衛門の請地であった(岩室村史)。初めは弥十郎新田とも山崎四郎左衛門新田ともよばれた。承応二年(一六五三)山崎と改称したという。寛文三年(一六六三)には見出分一五〇石余があると訴えられ、年貢を増徴されたという。元禄郷帳に井田村枝郷として山崎新田村とみえ、高三三〇石二斗余。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]七城町山崎

迫間はざま川右岸に位置し、北側の台地中腹から裾部に立地。東は袈裟尾けさお(現菊池市)に接し、隈府わいふ(現菊池市)の高札場より一里二町余。天正一七年(一五八九)の検地帳に畠一八町一畝・屋敷七反一畝余、分米一二〇石、名請人三一、屋敷数一四とある。深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑に高一五九石八斗余、畑二一町五畝余、竈数二四・人数一二六、駄馬三三、氏神天満宮、産物として西瓜が記されている。明治一六年(一八八三)調べの民業戸数は農業三二・大工職一(郡村誌)


山崎村
やまさきむら

[現在地名]高松市西山崎町にしやまさきちよう

中間なかつま村・円座えんざ村の南に位置し、高松・金毘羅街道が通る。貞享高辻帳に村名がみえ、高三六七石余。池泉合符録によると水掛高二七石余(当村分二六石余)の奥谷下池ほか一六池があるがすべて小池で、岡本おかもと村の奈良須ならず池から七三八石余の水掛りを得ている。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]吉川町富岡とみおか

西浦にしうら村の西、北谷きただに川中流の丘陵地にある。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方六三石余・畑方五石余。村高は幕末まで変わらない。寛文元年(一六六一)おく池をめぐり上荒川かみあらかわ村などと争論となり、享保八年(一七二三)には武士むし山開発をめぐる争論に巻込まれた(吉川町誌)


山崎村
やまざきむら

[現在地名]相知町大字山崎

松浦川と厳木きゆうらぎ(松浦東川)の合流地の右岸の村で、伊岐佐いきさ村より中山なかやま村へ通じる街道筋に位置する。

「松浦記集成」の松浦党君臣名居所に戦国末期の武将として「杵島権太郎、留主居、一に侍大将、山崎村杵島城」と記す。「松浦要略記」の波多家諸臣録に「杵島権太郎、山崎之城」と記す。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]下館市山崎

下館城下西下り口から五所宮ごしよみや村に通じる道筋に位置する。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高八二二・五四三石とある。のち旗本領となり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には「高九百三拾六石四斗壱升、鎮守五所明神、家数三拾四軒、馬拾壱疋、松平新八郎・間部忠四郎・飯田岩次郎・国領市左衛門・久松彦左衛門・山名繁三郎・安部式部・内藤小膳知行所、真壁郡山崎村名主長七・同藤右衛門」とある。


山崎村
やまざきむら

文政七年(一八二四)写の陸奥国津軽郡之図(市立弘前図書館蔵)によれば南浮田みなみうきた村の東にある。実際には南浮田村の東南で湯船ゆふね村との間にあったと推定される。現廃村。

元禄三年(一六九〇)高杉組に属し、村位は中とある(平山日記)。享保一二年(一七二七)藤代組に編入し(平山日記)、「青森県租税誌」では藤代組に属し「浮田村帳面仕分」とみえる。宝暦四年(一七五四)赤石組に属したという(西津軽郡史)


山崎村
やまざきむら

[現在地名]大和町山崎

山崎新田の東、北は門前もんぜん村、東は大桑原おおくわばら村、南は要害ようがい山。正保国絵図に村名があり、高一二〇石余。天保三年郷帳では高一八二石二斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では枝村山崎新田と一村の扱いで、田一三町余・畑二四町七反余。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]宮崎市山崎町

那珂郡に属し、宮崎郡村角むらすみ村の東に位置する。北は塩路しおじ村、東は日向灘に面する。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳に那珂郡山崎三〇町、天正一六年八月四日の日向国知行方目録には山崎五町とあり、島津豊久領となっている。寛文七年(一六六七)の佐土原藩領之図(県立図書館蔵)、貞享元年(一六八四)の佐土原領郷村高辻帳(佐土原島津家文書)では高一三一石余。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]岩出町山崎

紀ノ川中流域の南岸、御茶屋御殿おちややごてん山の北東麓にある。東部を貴志きし川が北流。北は紀ノ川を挟んで清水しみず村。「続風土記」は「名草ノ郡和佐高山より山巒東に連りてとして高幡山に至りて紀ノ川・貴志川合流の処に臨むを以て山崎の名あり」と記す。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]五泉市山崎

新津丘陵の東端に位置し、東には能代のうだい川が北流する。北は猿橋さるばし村、南は小熊おぐま村に接する。古くは山崎興野村と称し、元和五年(一六一九)の堀主膳宛堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)に「高百八拾六石六斗六升二合 菅名組ノ内山崎興野村」とある。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳には山崎村一二九石一斗余とあり、この頃までに山崎村に改称した。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]十津川村大字山崎

池穴いけあな村の北、十津川の曲流地に立地。十津川郷のうち。天正一五年(一五八七)一〇月一〇日和州吉野郡十津川之内山崎村御検地帳と同日付の和州吉野郡山崎村検地帳但十津川内(ともに風屋区有文書)の二冊があり、前者には「いやしき」八筆、芋畑など九筆がみえ二・四七石、後者には「やしき」ほか大豆・芋畑など三六筆一九・〇九石がみえる。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]山南町山崎

東は篠山川を隔てて谷川たにがわ村、同川右岸に沿って北上すると金屋かなや村に通じる。玉巻たまき村の枝村とされる(丹波志)。正保郷帳に村名がみえ田高四六石余・畠高三石余、水損少しあり。


山崎村
やまさきむら

[現在地名]荻町桑木くわぎ

大野川の支流山崎川(岩戸川)上流、肥後国との国境に接する標高六〇〇メートル余の台地にある村。正保郷帳では藤原ふじばる郷に属し、畑方のみで高四八石余。弘化物成帳では葎原組のうち、村位は下、免二ツ三分、田はなく、畑九六石余(二〇町五反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はなく、開畑五石余(一〇町六反余)がある。


山崎村
やまざきむら

[現在地名]新発田市山崎

小美おみ村の北に位置し、北を新発田川が流れる。新発田藩領で、慶長一七年(一六一二)の御蔵納同払方帳(新発田市史資料)に五十公野組蔵入として三九石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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