山崎町(読み)やまさきちよう

日本歴史地名大系 「山崎町」の解説

山崎町
やまさきちよう

面積:一七八・八九平方キロ

宍粟郡の南西部に位置し、東は安富やすとみ町、北東は一宮いちのみや町、北は波賀はが町・千種ちくさ町、西は佐用郡南光なんこう町・三日月みかづき町、南は揖保いぼ新宮しんぐう町に接する。町域の大部分を山林が占めるが、東部を南流する揖保川に支流のかけはし川・伊沢いさわ川・菅野すがの川などが合流し、西端部を千種川の支流志文しぶみ川が南流している。南部の山崎盆地に山崎市街が形成されており、各河川の流域に集落がみられる。姫路市から安富町を経て山崎市街に入る国道二九号は揖保川沿いを遡上し鳥取県に至る。同国道は町域南部を東西に走る中国自動車道と山崎インターチェンジで結ばれる。


山崎町
やまざきちよう

東山区大和大路通五条上ル

柿町かきまち通を挟んで、建仁寺町けんにんじまち通(大和大路やまとおおじ)に位置。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「此町東へ行道有。此町南の辻は五条通也」とある。東へ行く道は音羽町辻子おとわちようのずし

建仁寺門前町とともに近世初めより開け、寛永版平安城東西南北町並之図に「山さき丁」の記載をみる。地誌類では、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「けんにんじさがる 山崎町」と所見し、延宝六年(一六七八)刊「京雀跡追」に「山さき町 此所よりもくわんじんびくに(勧進比丘尼)多く出る所なり」とあるが、比丘尼のことは史料がなく未詳。


山崎町
やまさきまち

[現在地名]熊本市山崎町・通町・古川町

城下町の政治・軍事上の重要地域である武家町の山崎の南端中央部に位置し、西は船場せんば二丁目、南は通町、東は武家屋敷の山崎町六番丁に接し、慶徳けいとく堀のすぐ東側一帯の町人町。薩摩街道から長六ちようろく橋を渡り右折して山崎町を通り、そのまま北上すると城下の御作事所の南側に達するように、山崎町通が山崎の中央道的役割をしている。山崎町はこの道路両側の町人町をさし、西側は慶徳堀の中ほど以南から古川ふるかわ町通まで、東側はほぼ慶徳堀の南端の位置からとおり町までの一画である。寛永九年(一六三二)の肥後御入国宿割帳(県立図書館蔵)に山崎町の名はみられない。


山崎町
やまざきちよう

[現在地名]伏見区桃山ももやま丹下たんげ桃山最上ももやまもがみ

京町きようまち十丁目と大和やまと街道筋との間を東西に走る津知橋つちばし筋の中央。京町十丁目から東に鍛冶屋かじや町・魚屋うおや町・山崎町・伊達だて町、大和街道筋の最上町と続く。伏見城下総絵図によると、鍛冶屋町から伊達町に至る津知橋筋は、道路の南北に町屋地が連なる町人居住区で、その町家裏は武家屋敷地であった。

町名の由来は、「京都府地誌」に「山崎家盛ノ第地、俗ニ下材木町ト云」と記され、山崎氏の邸宅があったと伝えられる。また下材木しもざいもく町という別称があったことも知られる。ちなみに近隣の鍛冶屋町は豊臣時代に「鍛戸肆店ヲ列ネシ所」であり、魚屋町は「魚介ノ市」のあったところであり、伊達町は「豊臣氏在城ノトキ、伊達正宗ノ第地」と記す。


山崎町
やまざきまち

[現在地名]笹神村山崎

真光寺しんこうじ山麓に位置し、北は笹岡ささおか町、東は小栗山新こぐりやましん村に接する。正保国絵図山崎村一〇九石余とあり、村上藩領であった。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一三四石一斗余とある。正徳元年(一七一一)山崎町に改められ(笹神村史年表)、同三年の山崎町明細帳(岩野家文書)によれば高二四一石余・田畑反別二一町余、家数五八(本百姓一〇・水呑四六・山伏二)、人数二九九、馬一二。


山崎町
やまさきちよう

[現在地名]岡山市野田屋町のだやちよう一―二丁目

外堀と西にし川の間で、南北に通る山陽道に沿って発達した両側町。東は細堀を隔て宝仙ほうせん寺・本行ほんぎよう寺、南は山陽道を隔てて柿屋かきや町、西は細堀を隔て野田屋町、北は丸亀まるがめ町。当町への出入口の外堀山崎町口門は請取口とされていた(藩法集)。寛永城下絵図では「博労町」とみえる。延宝四年(一六七六)博労ばくろう町が北は丸亀町、南は山崎町に分けられた。このとき山崎町の家数三九軒、表間二三四間余(「諸用留」国富文書)。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は一町四反余で、うち御免地妙林みようりん寺八畝余を除き徳米二一石四斗余・口米四斗余。


山崎町
やまざきちよう

[現在地名]南区大宝寺だいほうじ中之なかの

白銀しろがね町の西にあり、九之助橋くのすけばし通の両側町。南北に中橋なかばし筋・三休橋さんきゆうばし筋が通る。古くは南紺屋みなみこんや町といい、この町名は明暦元年(一六五五)から確認されるが(南区志)、初発言上候帳面写は古町名を紺屋町五丁目とする。また大坂町之内町名替り候写には南紺屋町より分れて山崎町が成立したとあり、山崎町の名が生れるのは延宝七年(一六七九)なので(南区志)、同年に二町に分れたと考えられる。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二七・役数三四役で、うち年寄分一役が無役。年寄は明石屋次郎左衛門。勧化三〇町組の一町で、嘉永二年(一八四九)の坪数高年番定帳(大阪市立中央図書館蔵)によると坪高は二千八四〇坪、年寄分を引いた二千七五八坪が負担坪数。


山崎町
やまざきちよう

[現在地名]金沢市尾張町おわりちよう一丁目

文政六年(一八二三)上今かみいま町の西端が分離して町立てされた。西は博労ばくろう町、北は尾張町の町筋に続き、地子町。町名は「古名に相改」めたものとされる(町奉行より出候町名)。加越能故事問答(加越能文庫)に元和四年(一六一八)「金沢山崎町」に住していた田上屋弥右衛門に関する記載があり、また小松遺文(同文庫)に収める寛永一五年(一六三八)の請取書に十間じつけん町太郎兵衛らとともに「山崎町九兵衛」が著名している。これらにみえる山崎町は当初の山崎町をさすと考えられる。一方、城内等秘抄(金沢城郭史料)に「御算用場栂大学屋敷辺山崎町トス」とあり、この山崎町は少なくとも算用場が西町口にしちようぐち御門東藤右衛門とうえもん丸下に設置された寛文一二年(一六七二)頃までは、当地近辺の西町口御門から博労町一帯に一町を形成していたと思われる。


山崎町
やまざきちよう

中京区河原町通三条下ル二丁目

町の西寄りを南北に河原町かわらまち通が通り、東側は高瀬たかせ川が南流する。

町名は、筆描図系の寛永以後万治以前京都全図に「山崎町」とみえる。木版図系では寛永版平安城東西南北町並之図に「しちや丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「山崎町」とあり南組・北組の二町に分れる。天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成では「山崎丁」と一町となる。なお「京町鑑」・改正京町絵図細見大成は三条河原町南三筋目東入の所は「大黒町」とある。


山崎町
やまざきちよう

宇治うじ川派流に面した浜地の町。「豊公伏見城ノ図」では、山崎町地域の中央を南北に貫く通りの東側に、山崎甲斐守の屋敷地があり、町名の由来と考えられる。南北路の西側は宮城丹波守屋敷地で、江戸時代には、丹波たんば町または地方丹波町ともよばれる町となっていたが、近代になって丹波町は村上町と山崎町によって併合された。

寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図には、「山崎町」と記されているが、安永八年(一七七九)刊「伏見鑑」では「山崎町俗にあたらし町と云」と記されており、周辺町々に比較して新開の町であったことがうかがわれる。


山崎町
やまざきまち

[現在地名]金沢市石引いしびき二丁目

波着寺はちやくじ門前の南東に位置。江戸時代には藩士山崎庄兵衛の屋敷地で山崎庄兵衛家中と称されていたが、明治二年(一八六九)山崎町と改称され、同四年に正式に町立てされた。山崎庄兵衛の屋敷地は、延宝町絵図では約四千五〇〇坪、北側に波着寺が描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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