日本歴史地名大系 「生駒郡」の解説
生駒郡
いこまぐん
〔原始・古代〕
縄文・弥生期の顕著な遺跡は分布しないが、縄文土器は矢田丘陵南麓の斑鳩町で中期から後期のものがわずかに採取されている。弥生期の遺跡も乏しいが、斑鳩町
五世紀末から六世紀初頭には平群谷に平群氏が勢力を振るい、平群臣真鳥は雄略天皇のときに大臣の位につき、国政を専横して日本の王たらんとし、皇太子のためと称して造営した宮に自ら住み(日本書紀)、その子鮪の時にも朝廷の人々は朝は朝廷に昼は鮪の家に参集するありさまであったという(古事記)。しかし、鮪は武烈天皇と物部麁鹿火の娘影媛を争って殺され、平群氏は衰退していく。平群氏の寺としては
生駒郡は河内への交通の要地にあることから、聖徳太子が平群郡斑鳩の里に宮宅を設けて私寺を建立。斑鳩寺(法隆寺若草伽藍)・
古代の平群郡を構成する郷には、
式内社としては、平群郡二〇座のうち一七座(大一〇座、小七座)が現生駒郡内に比定されている。また郡域の西端、河内国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報