改訂新版 世界大百科事典 「信貴山城」の意味・わかりやすい解説
信貴山城 (しぎさんじょう)
大和・河内の国境にある生駒山系の南部,信貴山(標高437m)にあった中世山城(現,奈良県生駒郡平群町信貴畑)。東の平群(へぐり)谷,南の大和川沿い竜田越(たつたごえ),北の生駒山十三越からほぼ等距離にあり,大和,河内をあわせ制圧する絶好の戦略的位置にある。元弘の乱(1331)後,護良(もりよし)親王が一時中腹の朝護孫子寺毘沙門堂に拠ったように,南北朝時代いらいたびたび国人らが陣所とした。本格的築城は1536年(天文5)が最初で,河内の木沢長政が大和の制圧を目ざし,築城して居城とした。しかし長政は41年河内太平寺の一戦に敗死し,当城も焼けおちた。ついで59年(永禄2)松永久秀が大和に入国,多聞山(たもんやま)城(現,奈良市)とともに当城に本拠をおいて,大和,河内の制圧を目ざし,当城を大規模な山城に構築した。久秀は68年織田信長に下ったものの,77年(天正5)当城に拠って信長に反し,織田信忠らの攻撃をうけ10月10日落城,久秀父子は自刃した。落城のようすは,《多聞院日記》に〈信貴城猛火天ニ耀テ見了〉などと記されている。以後当城は放置されて現在にいたっている。城跡は500m四方にわたり,雄岳にある鉢巻状の帯郭をもった郭を中心に,南東から北東・北西方向へ放射状にのびる7条の尾根筋に連続して郭がある。土塁跡,門跡や空堀なども遺存し,近畿地方における中世後期山城の代表的遺構をなしている。
執筆者:熱田 公
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報