[現在地名]むつ市田名部・中央一―二丁目・金谷一―二丁目・小川町一―二丁目・本町・田名部町・柳町一―四丁目・栗山町・上川町・横迎町一―二丁目・新町・海老川町・緑町・下北町・港町・仲町・昭和町・若松町・金曲一―三丁目・南町・赤川町・松原町・南赤川町・大曲一―三丁目
下北丘陵に発し、大湊湾に注ぐ田名部川の下流流域の低地帯に位置する。南は奥内村、東は田屋村・目名村・大利村(現下北郡東通村)、北は関根村、西は大平村と接する。正中二年(一三二五)の安藤宗季譲状(新渡戸文書)に「うそりのかうのうち たやたなふあんと」とみえ、当地は一期分として女子とら御前に与えられている。「東北太平記」の伝えるところでは、建武元年(一三三四)南部師行により武田修理・赤星五郎の両人が「北部」の目代として配されたといい、赤星氏は田名部館に拠ったといわれる。その頃は「田鍋」と称されていたが、赤星氏が蠣崎蔵人に倒されてから田名部と改められたともいわれる。康正三年(一四五七)に終結をみた蠣崎の乱の後より根城南部氏の支配下に入った。女館は一二代南部守清の後室が娘勝姫の成長を待ちながら住したことに由来する地名という(田名部町誌)。元和(一六一五―二四)の頃には二一代清心尼も同所に移り住んでいたという(下北半嶋史)。
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に田名部村四四二石余とあり、同年の郷村帳によれば四四二・五九石のうち四〇八・七〇九石が田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高七九七・六石余、うち畑一三一石余、給所一八七・九石余とある。戸口は三五四軒・一千九九七人で、人口は田名部通で最も多い。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数三四〇、うち町場は新町五五、本町四一、柳町六四、小川町二八、横向町四三、明神町二九で、支村は金屋二一、落ノ沢二、中山五、女館一三、椛山一五、栗山二四。
田名部代官所の所在地で、田名部通の行政のみならず経済・文化の中心地であった。代官所は元和三年の田名部借上の直後に設けられたものと考えられるが、町割の年代は明らかではない。寛文七年(一六六七)の難船救助等の高札はじめ天和二年(一六八二)の切支丹禁制等の高札が本町に立てられた(御領分高札集)。雑書の寛文一二年三月一二日条には
<資料は省略されています>
とある。在来の一の三斎市に六の三斎市を増設し、五町の廻市としたもので、この五町は本町・柳町・小川町・横迎町・新町のいわゆる田名部五町であろう。