日本歴史地名大系 「田名部村」の解説
田名部村
たなぶむら
下北丘陵に発し、
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に田名部村四四二石余とあり、同年の郷村帳によれば四四二・五九石のうち四〇八・七〇九石が田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高七九七・六石余、うち畑一三一石余、給所一八七・九石余とある。戸口は三五四軒・一千九九七人で、人口は田名部通で最も多い。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数三四〇、うち町場は新町五五、本町四一、柳町六四、小川町二八、
田名部代官所の所在地で、田名部通の行政のみならず経済・文化の中心地であった。代官所は元和三年の田名部借上の直後に設けられたものと考えられるが、町割の年代は明らかではない。寛文七年(一六六七)の難船救助等の高札はじめ天和二年(一六八二)の切支丹禁制等の高札が本町に立てられた(御領分高札集)。雑書の寛文一二年三月一二日条には
とある。在来の一の三斎市に六の三斎市を増設し、五町の廻市としたもので、この五町は本町・柳町・小川町・横迎町・新町のいわゆる田名部五町であろう。
田名部村
たなべむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報