田名部通(読み)たなぶどおり

日本歴史地名大系 「田名部通」の解説

田名部通
たなぶどおり

盛岡藩の地方行政組織三三通の一。きた郡に属する。現下北郡・むつ市域と一致し、藩政期を通じて変わらない。下北丘陵の中央付近で野辺地のへじ通および七戸しちのへ通と接する。田名部代官所は元和三年(一六一七)の田名部借上の頃から設置されたものと考えられるが、通名はまだ用いられていなかった模様で、雑書の寛文九年(一六六九)一〇月二八日条に田名部通とみえている。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図ならびに同年の郷村帳によれば、田名部通の範囲に属する村は中野沢なかのさわ奥内おくない安渡あんど城ヶ沢じょうがさわ・田名部・河代かわだい(現むつ市)田屋たや目名めな砂子又すなごまた尻屋しりや猿ヶ森さるがもり白糠しらぬか尻労しつかり蒲野沢がまのさわ(現東通村)大畑おおはた(現大畑町)大間おおま奥戸おこつぺ(現大間町)長後ちようご(現佐井村)脇野沢わきのさわ(現脇野沢村)川内かわうち(現川内町)の二〇ヵ村である。郷村帳でみると高の合計は一三七〇・七四四石。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では村数は四二で、高は四七〇八・〇八四石。大室おおむろ角違すみちがい南関根みなみせきね・北関根・烏沢からすざわ(現むつ市)老部おいつぺ小田野沢おだのさわ岩屋いわや大利おおり石持いしもち(現東通村)正津川しようづがわ(現大畑町)下風呂しもふろ蛇浦へびうら異国間いこくま(現風間浦村)古佐井こざい大佐井おおざい福浦ふくうら牛滝うしたき(現佐井村)小沢こざわ(現脇野沢村)田野沢たのさわ戸沢とざわ檜川ひのきがわ宿野部しゆくのへ蠣崎かきざき(現川内町)が新たにみえ、田名部・目名はみえない。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では前記四二ヵ村のうち大室・角違・烏沢・川代かわだい・老部・石持・田野沢・戸沢は独立村としてみえず、南関根・北関根は関根、古佐井・大佐井は佐井となっている。また大平おおだいら(現むつ市)野牛のうし(現東通村)みなと(現大畑町)が新たにみえ、田名部・目名も独立村としてみえて、村数は三七となっている。高は四千六四三石余、うち田三千一九二石余・畑一千四五一石余で、給地一一三一・三石余を含む。戸口は二千九八七軒・一万七千四九三人。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では大室・角違・烏沢・川代・石持・老部・田野沢・戸沢が再び独立村としてみえ、湊は大畑の支村となっており、村数は四四。家数は二千九九六。

田名部村を中心に大平村から脇野沢村に至る陸奥湾沿岸を西にし通、関根村から佐井村に至る津軽海峡沿岸をきた通とも称する(「田名部檜山御山制書抜」日本林制史資料)

〔海運〕

田名部七湊とよばれる良港を有し、東廻・西廻海運ならびに松前交易の接合点として船舶が輻湊した。当地の湊はすでに室町末期には開かれていたものという。文禄二年(一五九三)正月七日付の南部信直書状(南部家文書)に「田名部之船役、商人なすましきと申候由承候、御朱印無用に出候者、不及是非候、何とも無御理候者、被取候而可然候、若某之手判出申、商人一両人可出候、其共土産之分ニ可然候」とあり、信直は八戸二郎に宛てて田名部に出入りする商船から船役銭を取立てることを指示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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