日本歴史地名大系 「脇野沢村」の解説
脇野沢村
わきのさわむら
下北半島西南部、
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に脇野沢村九石余とみえ、同年の郷村帳によれば九・二四三石のうち五・七四九石が畑であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高九三・二石余、うち畑四八・八石余とあり、戸口は一八七軒・一千三人。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数九二で、支村として本村西の往還筋に
延宝三年(一六七五)「たちらち」、同五年「情能浜」「奴いどうか沢」「九艘泊」に塩釜が設けられた(雑書)。「邦内郷村志」には地船四艘・漁船二〇艘、塩釜一工とあり、馬四〇疋・牛一〇三疋を飼養。「多漁人、冱有大口魚漁釣、出於万漁」とあり、鱈を産する。鱈は陸奥湾内随一の水揚高を誇り、おもに江戸に運ばれ、塩蔵も行われた。「原始謾筆風土年表」の天明元年(一七八一)の項に「脇野沢水鱈役二十六両位にて有しか、五六十両の受負となり、其後百五六十両に及しも、文化に至て東蝦夷より逾江戸直く廻の鱈多くして百両位に成行り」とある。
脇野沢村
わきのさわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報