日本歴史地名大系 「大平村」の解説
大平村
おおだいらむら
- 福島県:二本松市
- 大平村
大平村
おおひらむら
大平村
おおだいらむら
現八坂村の南西部に位置し、
大平村は、江戸時代初期までは金熊村とよばれていた。大平の名は、天正一一年(一五八三)三月六日付で小笠原貞慶が発した安堵状(北沢文書)のあて先が「大平の孫左衛門尉」とあり、本文にも「大平之内六貫五百文、先御判之ごとく被下候」とみえるのを初見とする。なお孫左衛門尉については、これより先、天正一〇年一一月九日付で貞慶から
金熊の名は、松本藩主石川三長の家臣の鶴見長勝が慶長一〇年(一六〇五)三月付で北沢対馬にあてて発した新切条目(北沢文書)に「金熊山中新切之事」とし、あて名に「金熊ノ北沢対馬殿」とあるのを初見とするが、この金熊の呼称はこれより古くから用いられ、大平と併用されながら大平よりやや広い範囲、すなわち古い開発の
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
- 青森県:むつ市
- 大平村
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に村名はみえず、「下北半嶋史」によれば寛文年中(一六六一―七三)野口清安なる者によって開かれたという。「郷村古実見聞記」では正保二年の絵図に大平湊が書上げられたとする。
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおひらむら
- 愛媛県:伊予市
- 大平村
現伊予市の南部山地を占め、村内を北に流れ下る
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「大平村 茅山有」、高七三九石五斗五合、このうち三六九石七斗五升二合五勺が加藤出羽守分、三六九石七斗五升二合五勺が加藤織部分とある。
大平村
たいへいむら
- 福岡県:築上郡
- 大平村
県の東端、築上郡の南東端部に位置し、北は
大平村
おおだいらむら
- 新潟県:糸魚川市
- 大平村
大平村
おおだいらむら
大平村
おおひらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおひらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
だいらむら
大平村
おおひらむら
中世、
江戸時代、地検帳の大平村・下大平村を中心に大平名の東半部が大平村となり、土佐藩家老深尾氏知行の佐川領山分九ヵ村の一とされた。
大平村
おおひらむら
天正一七年(一五八九)の山田郷地検帳には大比良村として一二三筆一〇町三反一七代一歩が記されるが、うち二七筆一町二代は名本屋敷(一反一一代)に住む大平孫衛門の給地および抱地。大比良名が大部分を占めるが、大平氏はかつてはこれらの名全体を支配した中世的名主と考えられる。江戸時代は元禄地払帳によると本田高一〇三・一八八石、うち蔵入地が二〇石余で、残りは三名の知行。
大平村
おおだいらむら
大平村
おおひらむら
大平村
おいだいらむら
- 静岡県:浜北市
- 大平村
大平村
おおひらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおひらむら
大平村
おおひらむら
大平村
おおひらむら
吉野川の支流大平川西岸にある山間の村で、北は伊予国。
慶長一六年(一六一一)の本川ノ内北川名検地帳に「北川村」とみえるのが近世の大平村にあたり、一四筆で検地面積一二反五代。うち一筆に名本源四郎が居住する「トイ」(五代)が記されるほかは山畠で、六筆に「ゐ」「居」とみえる。山畠では楮を栽培。元禄地払帳によれば、小北川分を含み、本田一四石余で八名の給田となっているが、新田はない。
大平村
おおびらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおひらむら
- 宮崎県:串間市
- 大平村
大平村
おおだいらむら
山田川の東にあり、支流
山中より白べな土、瀬戸焼の原料の白土を産し、「加藤寛斎随筆」に「白べな土は瑞竜山歴青ニ用ゐ給ふ故に、御新葬の毎度に大平村より納之」とあり、また「歴青は瑞竜山外御郭の内を詰る也、製法白べな土、餅米を以粥とす、焼酎、石灰此四品を以て練合せて埋む、及后年瑪瑙に化す」とみえる。
大平村
たいへいむら
大平村
おおだいらむら
- 新潟県:柏崎市
- 大平村
大平村
おおだいむら
大平村
おおひらむら
大平村
おおだいらむら
大平村
おおだいらむら
- 山形県:米沢市
- 大平村
大平村
おおだいらむら
大平村
だいへいむら
大平村
おおひらむら
- 愛媛県:八幡浜市
- 大平村
八幡浜港の湾内の村。東は八幡浜浦、西は
太閤検地の石高は一八六石三斗三升、耕地面積の比率は田三九パーセント、畑六一パーセントであったが、寛文検地では石高が五一パーセントも減り、田三一パーセント、畑六九パーセントに変化している。
大平村
おおひらむら
大平村
おおだいむら
大平村
おおひらむら
- 熊本県:八代市
- 大平村
北は赤松村、南は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報