大平村(読み)おおだいらむら

日本歴史地名大系 「大平村」の解説

大平村
おおだいらむら

[現在地名]二本松市太子堂たいしどうたけうち安達あだちはら浅川あさかわ石畑いしはた丑子内うしこうち大稲場おおいなばおかうち大平中井おおだいらなかい上蓬田かみよもぎださくさき小セ川こせがわ三合内さんごううち西光内さいこううち神明石しんめいいし式部内しきぶうちしまうち島寺しまでら遠山とおやま中森なかもり長下ながしたぬまさく橋本はしもと松林まつばやし明主内みようしゆうち水上みずかみ宮本みやもと諸越谷もろこしがい谷和子やわこ蓬田よもぎだ

鈴石すずいし村の北に位置し、北と西の大半は阿武隈川に限られ、対岸は上川崎かみかわさき村・油井ゆい(現安達町)下成田しもなりた村。天文一四年(一五四五)九月吉日の石橋尚義充行状(松藩捜古)によると「大平村之内 たいしとう三貫文之所」が大内平右衛門ほかに宛行われている。「たいしとう」は現在の太子堂であり、「積達大概録」に「大子堂館々主不知」とある。太子堂の北に続く字矢ノ戸(現蓬田)にある三島みしま神社の毘沙門天厨子の墨書銘に「八戸大明神御本躰□ 大檀那源大内壱岐守高政 永禄九丙寅九月吉日」とある。

大平村
おおひらむら

[現在地名]沼津市大平

徳倉とくら山を挟んで下香貫しもかぬき村の東にある。北西流する狩野かの川の左岸氾濫原を占め、徳倉山、南西の鷲頭わしず山、南の大平山やそこから東へと続く支稜などによって三方を山に囲まれる。村内は小山おやま松下まつした横代よこじろ大井おおい御前帰ごぜんがえり小踊こおどり(鴻鳥)天満てんま山口やまぐち吉田よしだ正戸まさど(政戸)新庄しんじよう(新城)三分一さんぶいち(三分市)の小集落に分れ、いずれの集落も一回に三尺も堆積するといわれた狩野川の洪水を恐れて山裾に立地している。北西は徳倉村(現清水町)、東は日守ひもり(現函南町)で、また山越えで接する静浦しずうら江浦えのうら地区の村村との交流も盛んであった。寛永改高附帳では田高九一五石余・畑高四七二石余、ほかに地内の曹洞宗桃源とうげん院領高六石。その後村高は正保二年(一六四五)の検地で九六〇石余、万治二年(一六五九)の検地で一千三三〇石余、延宝二年(一六七四)の検地で一千六九九石余と変遷し(大平年代記)元禄郷帳では高一千七〇五石余。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]八坂村大平

現八坂村の南西部に位置し、相川峰あいがわみねから東に傾斜して金熊かなくま川の谷に至る斜面に村居があり、大平の「平」はこの地方の方言で傾斜面をさしているので、村名は村の立地から起こっているといえる。

大平村は、江戸時代初期までは金熊村とよばれていた。大平の名は、天正一一年(一五八三)三月六日付で小笠原貞慶が発した安堵状(北沢文書)のあて先が「大平の孫左衛門尉」とあり、本文にも「大平之内六貫五百文、先御判之ごとく被下候」とみえるのを初見とする。なお孫左衛門尉については、これより先、天正一〇年一一月九日付で貞慶から日岐ひき領一五貫文等を宛行われた文書(北沢文書)の宛書に「北沢孫左衛門尉」とあり、この北沢氏は、大平集落の北に接して東西一五間、南北一〇間の主郭をはじめとする数段の郭をしつらえた古屋場こやば城と称する山城に拠り、金熊谷を押えていたと伝えている。

金熊の名は、松本藩主石川三長の家臣の鶴見長勝が慶長一〇年(一六〇五)三月付で北沢対馬にあてて発した新切条目(北沢文書)に「金熊山中新切之事」とし、あて名に「金熊ノ北沢対馬殿」とあるのを初見とするが、この金熊の呼称はこれより古くから用いられ、大平と併用されながら大平よりやや広い範囲、すなわち古い開発の切久保きりくぼ大塚だいづかまで含めた地域をさしていると想定される。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]神林村南大平みなみおおだいら

大平山(五六〇・八メートル)の山間より流れる川と、河内かわうち村の北東斜面谷間より流れ出る南俣みなみまた川が合流して西へ流れるいし川の河岸段丘とその氾濫原にある山間の村。南は河内村、西は指合さしあわせ村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分大平村 下」とみえ、本納一五石二斗五升・縄高六四石九斗六升四合、家三軒、「との岡ヨリ大平村ヘ十五里」と記される。近世は村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保元年(一七四一)から文化八年(一八一一)まで陸奥白河藩領。正保国絵図では高一六〇石余。寛保二年の村明細帳(南大平区有文書)によれば田七町五反一畝余・畑屋敷三町二反五畝余・新田七反一畝余。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]むつ市大平・真砂まさご町・あさひ町・山田やまだ町・文京ぶんきよう町・大平町・並川なみかわ

釜臥かまふせ(八七八・六メートル)の東に位置し、大湊おおみなと湾に面する。村内を大荒おおあら川・小荒こあら川が南流する。東は田名部たなぶ村、南西は安渡あんど村と接する。康正年間(一四五五―五七)の蠣崎の乱の頃は「大鍋平」と称したというが(東北太平記)、委細をつまびらかにしない。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に村名はみえず、「下北半嶋史」によれば寛文年中(一六六一―七三)野口清安なる者によって開かれたという。「郷村古実見聞記」では正保二年の絵図に大平湊が書上げられたとする。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]大和町鶴巣つるす 大平

七北田ななきた丘陵の北縁、北半分は水田、南はゆるい丘陵地。西南からの西にし川が村の北で吉田川に落ちる。東は大谷土橋おおやつちはし(現大郷町)、北は吉田川境で桧和田ひわだ村、西は北目大崎きためおおさき村、南は幕柳まくやなぎ村。高城たかぎ(現宮城郡松島町)・大谷(現大郷町)を経て幕柳で多賀城から吉岡よしおかに通ずる古代の駅路に合する道が丘陵北縁に沿って東西に通じる。一五世紀後半頃から天正(一五七三―九二)の末年まで黒川氏の所領となる(大和町史)

大平村
おおだいらむら

[現在地名]郡山市大平町

小原田こはらだ村の東、阿武隈川東岸の河岸段丘に立地。康暦二年(一三八〇)六月一〇日の浄意譲状(青山文書)に「大平殿一せき」とみえ、大平氏にかかわる紀州熊野社の檀那職を円照房に譲っている。応永二四年(一四一七)守山もりやま湯上坊の僧浄祐がその檀那職を田村庄糠田侍従阿闍梨に譲っている(五月一日「浄祐譲状」同文書)。永正一五年(一五一八)一二月二二日、聖栄は「大たいらの屋しきの内、むねやく等」は聖栄側で負担するとの条件で「大たいらの人あし、そのほかこくち物」を合計一二貫文で先達兵ゑへ売却している(「聖栄売券」同文書)。大永二年(一五二二)四月九日「かはのくらのむらの内ニ、おうたいらと申」本年貢四貫三〇〇文の在家を一五貫文で蒲倉かばのくら先達蓮広坊へ売却している(「舟引某売券」同文書)

大平村
おおひらむら

[現在地名]伊予市大平

現伊予市の南部山地を占め、村内を北に流れ下るもり川に沿って耕地・集落が開ける。また村内を北から南に貫き犬寄いぬよせ(三二九・四メートル)の険を越える道は大洲おおず道とよばれ、松山―大洲の要路である。西は三秋みあき村、東は下唐川しもからかわ村、北はなか村などに接し、南は明神みようじん(六三四・三メートル)の分水嶺で上灘かみなだ(現伊予郡双海町)と境を接する。山崎やまざき郷一〇村の一。寛永一二年(一六三五)の替地以後、大平村は大洲・新谷二藩の相給となった。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「大平村 茅山有」、高七三九石五斗五合、このうち三六九石七斗五升二合五勺が加藤出羽守分、三六九石七斗五升二合五勺が加藤織部分とある。

大平村
たいへいむら

面積:四八・九六平方キロ

県の東端、築上郡の南東端部に位置し、北は新吉富しんよしとみ村、西は豊前市、東は大分県中津市と同県下毛しもげ三光さんこう村、南は同郡耶馬渓やばけい町・本耶馬渓ほんやばけい町に接する。山国やまくに川中流左岸に立地し、南境には英彦ひこ山から連なる雁股かりまた(八〇七メートル)大平おおひら(五九七・四メートル)などがある。村域の約七割はこれらの山の北斜面にあたる山地および丘陵地で、山間を友枝ともえだ川・東友枝川が北東流し、北部の土佐井つちさいで合流、新吉富村で山国川に合流する。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]糸魚川市大平

吹原ふきはら村の南東。はや川上流へ寒谷さむいたに・大平・岩倉いわくら湯川内ゆのかわち笹倉ささくらの集落からなり、ほこヶ岳南西麓に散在する。正保国絵図に高二三石余とある。延宝二年(一六七四)の凶作により、村高二三石五斗余のところ有高七石七斗余とされたが、有高に対する租率は一九成六歩で、年貢は一五石二斗余であった(糸魚川市史)。同五年の村々高付之帳によれば地高七石七斗余・山高四石六斗余・青苧高一一石余、名請人九が早川谷大肝煎の支配を受けている(同書)

大平村
おおだいらむら

[現在地名]修善寺町大平

田方郡に属し、狩野かの川上流の西岸にある村で、北は本立野ほんだちの村、東は同川を挟んで雲金くもがね(現天城湯ヶ島町)。中世大平郷の遺称地。文禄四年(一五九五)の検地帳には「大平郷」とあったという(増訂豆州志稿)。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によれば高六三二石余。元禄八年(一六九五)の代官五味小左衛門様御代御未進帳(小川家文書)には下大平村名主と上大平村名主がみえ、一時期二村に分れていた。

大平村
おおひらむら

[現在地名]益子町大平

八溝やみぞ山地に属し、小宅おやけ川左岸の山村。西は小宅村、北は芳賀富士(鶏足山)山頂を境に天子あまこ(現茂木町)。元和四年(一六一八)陸奥国内の所領の替地として「七井内太平村」一六〇石余が大田原藩領となり(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)、以後同藩領。慶安郷帳では大平村とみえ、田一〇一石余・畑五九石、ほかに安善あんぜん寺領五石があった。万治二年(一六五九)と天保三年(一八三二)の検地帳(河原正文書)が残り、文久元年(一八六一)新田検地では五町四反余が打出された(「新田検地帳」同文書)

大平村
おおだいらむら

[現在地名]いわき市田人町たびとまち南大平みなみおおだいら

仏具ぶつぐ山北麓の四時しとき川に沿い、北は旅人たびと村、南西下流は山玉やまたま村、南と西は常陸国。菊多きくた郡に属する。近世の領主の変遷は磐城平藩領から元和八年(一六二二)窪田藩領、貞享元年(一六八四)以降幕府領だが、旧高旧領取調帳では磐城平藩領とある。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では大平村高松村とみえ、高一〇五石余。正保郷帳では大平高合村とみえ、高一二一石余はすべて畑方。元禄郷帳では大平村とあり、高二三〇石余。文禄四年の岩城領小物成目録(秋田県立秋田図書館蔵)によれば、桑七八本・漆木一九束・楮七五五束、山役五二五文がある。正徳六年(一七一六)の村明細帳(南大平区有文書)によれば高二三一石余、年貢は金納、家数五七・人数二八四、鉄砲二三、馬は雌六八(糶駒用)、椿・煙草・紙漉等がある。

大平村
おおひらむら

[現在地名]小田町大平

日野ノ川ひののかわ村の北、小田川の支流大平川の水源地帯を占め、東の真弓まゆみ峠を越えて久万山くまやま父野川ちちのかわ(現久万町)に連なる。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高百弐拾三石三斗四升三合 大平村 日損所、茅山有」と記される。

江戸時代を通じ大洲藩加藤氏の治下にあったが、藩は村触布達の便宜からこの地域を田渡たど筋とよび、現伊予郡広田ひろた村に属する村々、久万山四村(父野川・二名・露峰・野尻)など浮穴郡一四村を含めていた。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]小原村大平

現小原村の北西端に位置し、標高五二二メートルの大平峠の麓にある。荷掛にかけから多治見たじみ(現岐阜県)に抜ける多治見道が通る。集落はかみなかしもほらの四組に分れている(小原村誌)。上の神社入口から縄文時代の石棒が出土し、基壇二基・笠四個・相輪三個・五輪一基が残る。竹貝津たけのかいづというカイト名が残る。

寛永郷帳では岡崎藩領、天明六年(一七八六)一部が旗本久世三四郎領で、明治元年(一八六八)には久世三四郎領・西尾藩領・巨勢鉱之助領の三給村である。慶安三年(一六五〇)三州賀茂郡小原之内岡崎領大平村検地帳(鈴木早苗氏蔵)には屋敷四一筆の面積と持主の名が書上げられている。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]山元町大平

南は小平こだいら村、北は八手庭はでにわ村、東は吉田よしだ(現亘理町)山寺やまでら村、西は明通あきどおし峠をもって伊具いぐ尾山おやま金津かなつ(現角田市)へ通じる。本村東北方に横山よこやま、北方ににぎりたてうち、南方に清水しみずの字地がある。正保郷帳では田二五貫七四九文・畑七貫九六七文。年未詳の「宇多亘理風土記」(「山下村誌」所収)では、田四八貫一三一文・畑八貫三〇二文で、人頭一二。

大平村
だいらむら

[現在地名]朝日町大平

さかい川の支流大平川の左岸にあり、北は境村、東は越後国上路あげろ(現新潟県青海町)、西は篠川ささがわ村、南は黒部奥山。正保郷帳では高二〇石余、すべて畑方で一町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三一石、免三ツ三歩、小物成は山役二五匁・蝋役一二匁・薪ころ役二〇七匁余であった(三箇国高物成帳)

大平村
おおひらむら

[現在地名]越知町大平・中大平なかおおひら五味ごみ

坂折さかおり(大桐川)中流域、分徳ぶんとく村・越知おち村の西にあり、「土佐州郡志」に「東限越知村、西限切見川小谷、南限尾川界長者村、北限野老山峠、東西二里南北二十町許」とみえる。

中世、別符山べふやま五名のうちの大平名に属し、天正一七年(一五八九)の別符山大平名別枝名地検帳によると大平名の地積八町九反余、切畑二五町五反余で、下大平・市山・常立・大平・内野・滝下・カマ滝・栃ノ木・霧深川の小村からなる。すべて片岡分で大平村には「大平ヤシキ」があった。

江戸時代、地検帳の大平村・下大平村を中心に大平名の東半部が大平村となり、土佐藩家老深尾氏知行の佐川領山分九ヵ村の一とされた。

大平村
おおひらむら

[現在地名]土佐山田町大平

佐野さの村の西、松尾まつお山より流れ出る谷の奥に集落がある。佐野村からこの谷を登り、松尾山のかきとうを越え大法寺たいほうじ村に出、新改しんがい川を下る道は、韮生にろう往還の支道とされた。佐岡さおか郷六ヵ村の一で、明治初年佐岡村となる。

天正一七年(一五八九)の山田郷地検帳には大比良村として一二三筆一〇町三反一七代一歩が記されるが、うち二七筆一町二代は名本屋敷(一反一一代)に住む大平孫衛門の給地および抱地。大比良名が大部分を占めるが、大平氏はかつてはこれらの名全体を支配した中世的名主と考えられる。江戸時代は元禄地払帳によると本田高一〇三・一八八石、うち蔵入地が二〇石余で、残りは三名の知行。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]大島村大平

保倉ほくら川左岸に位置し、北の対岸におか村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では当村と思われる地点に「けんぎう分布施村但立村モ云也」とあり、本納二二石・縄高四一石二斗四升九合、家三軒・九人。正保国絵図では高七八石余。天和三年郷帳では高一三八石五斗余、うち山高一石三斗八升三合・漆高七石九斗・青苧高二斗八升二合、反別田一八町五反余・畑屋敷三八町九反余・山林一町八反余。安永九年(一七八〇)の新田検地では高一一四石八斗余であったが、山間の荒地まで竿入を行ったので、年貢上納は困難だとして寛政元年(一七八九)再検地願(村松千秋氏蔵)を出している。

大平村
おおひらむら

[現在地名]砥部町大平

現砥部町の東南部、国道三三号沿いの三坂みさか峠の登り口にあたる地点の山村。東は現松山市域、北は岩谷口いわやぐち村、西と南は川登かわのぼり村に接する。

寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「御替地おかえち」に属し、浮穴うけな郡砥部郷一九村の一であるが新谷藩領で、小村のため岩谷口村庄屋が庄屋役を兼ねていた。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「大平村 茅山有」、高三七石八斗、うち田六石、畠三一石八斗という小村。

大平村
おいだいらむら

[現在地名]浜北市大平おおだいら

麁玉あらたま郡に所属。宮口みやぐち村の北西、灰木はいのき村の西、都田みやこだ川上流域左岸の丘陵地に立地する。江戸時代の支配領主の変遷は灰木村に同じ。正保郷帳では田方五二石余・畑方二一石余。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高七三石余、家数四七、うち役家四〇。元禄郷帳では高七三石余。天保郷帳では一六三石余。安政三年(一八五六)の家数七六・人数三六四(大平区有文書)。当村は夫役の替りに鍛冶炭を納めることで夫役を免除された(同文書)。明暦元年(一六五五)当村と堀谷ほりや・灰木の三ヵ村は宮口村と観音かんのん山の入会をめぐり争い、同山は三ヵ村の入会山とし、宮口村は鑑札をもつものだけが入山可能と裁定された。

大平村
おおひらむら

[現在地名]今立町大平

月尾つきお谷の中央部にあり、東は月尾川を隔てて長五ちようごしまの両村。大永年間(一五二一―二八)の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)には「大平殿」ほか地名を冠する者数名が記されている。

正保郷帳では長五大平村とあるが、享保五年(一七二〇)の鯖江藩成立以後分村したと思われる。文政五年(一八二二)の大平村五人組御改帳(笹村家文書)によると村高七六石余のうち一五石五斗は轟井とどろい村の矢部藤左衛門の越石であった。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]豊岡村大平

敷地しきじ川の上流右岸にあり、南は敷地村。もと同村の枝郷という(佐野家文書)。天正一七年(一五八九)検地が行われた(「大平村検地帳写」浅岡家文書)。正保郷帳によると田方九石余・畑方八石余。延宝五年(一六七七)検地があり(同年「敷地村運上山等諸証文」乗松家文書)、元禄郷帳では高一一六石余。正保郷帳・国立史料館本元禄郷帳では幕府領。享保郷村高帳によると旗本鈴木・皆川・丸毛・志都呂松平領、旧高旧領取調帳でも同じ五家領(ただし松平氏は五井と改名)。寛政二年(一七九〇)の皆川領年貢割付状(西田家文書)によると当初より金納で、田方二七石余・取米九石余、畑方五三石余・取米一六石余。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]大豊町大平

南小川みなみこがわの北岸、大滝おおだき村の南西、粟生あおう村の北東に位置し、「土佐州郡志」は「東西十町南北九町」と記す。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「大平村」とみえ、検地面積五町一反三一代五歩、うち田分三反四三代二歩、畠分一町九反一四代、屋敷二七・堂床(薬師堂)一で二町八反二四代三歩であった。すべて長宗我部氏家臣豊永権進の給地となっている。二筆に「梶有」、一筆に「茶有」とある。小字に「キト」(木戸)、「太モン」、「トイ」(土居)がみられ、土居には豊永地方では最高の一三町四反余を給地とする豊永権進が住している。彼の父中務丞実吉は小笠原越後守通実の弟で、越後守失脚後豊永地方の中心人物となっている。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]いわき市遠野町大平とおのまちおおだいら

入遠野いりとおの川の両岸に集落が点在し、東は根岸ねぎし村、南はたき村・黒田くろだ村、西は石住いしずみ村、北は入遠野村・上根岸村。菊多きくた郡に属した。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高一八五石余。慶長七年(一六〇二)岩城氏除封により幕府領となり、元和八年(一六二二)以降棚倉藩領。

大平村
おおひらむら

[現在地名]佐賀関町大平

大志生木おおじゆうき村の西に位置し、北は別府湾。狭隘な西谷と東谷を中心に開け、西谷に西谷にしたに川、東谷に東谷川の両小川が北流、伊予街道が村の中心部を東西に走る。寛永一一年(一六三四)の熊本藩豊後国郷帳に村名がみえ、高一〇四石余。正保郷帳では佐賀郷に属し、田方七六石余・畑方二七石余、柴山有とある。享和元年(一八〇一)の関手永大平村御年貢通御帳(大平家文書)によると、村の本方は高一〇二石余、古新地高三石余、御郡方新地高一石余、免はそれぞれ三ツ一分余、四ツ五分、五ツ一分で、惣物成は三五石余。

大平村
おおひらむら

[現在地名]清水市大平

河内こうち村の北、興津おきつ川の最上流域に位置し、北は峠越えで甲斐国巨摩こま福士ふくし(現山梨県富沢町)に通じ、東は中河内なかごうち村、西は安倍あべ平野ひらの(現静岡市)など。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後幕府領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(国立史料館本元禄郷帳・享保一六年駿府代官所村高帳・旧高旧領取調帳など)

大平村
おおひらむら

[現在地名]大川村大平

吉野川の支流大平川西岸にある山間の村で、北は伊予国。本川ほんがわ郷の一村で、宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)によれば東西一五町二〇間南北四四町一三間で、「惣体土地黒、在所南向南下り之所也」と記す。近世の郷帳類は当村に小北川こきたがわ村を含む。

慶長一六年(一六一一)の本川ノ内北川名検地帳に「北川村」とみえるのが近世の大平村にあたり、一四筆で検地面積一二反五代。うち一筆に名本源四郎が居住する「トイ」(五代)が記されるほかは山畠で、六筆に「ゐ」「居」とみえる。山畠では楮を栽培。元禄地払帳によれば、小北川分を含み、本田一四石余で八名の給田となっているが、新田はない。

大平村
おおびらむら

[現在地名]阿南町富草とみくさ 大平

現阿南町北部に位置する。北は恩沢おんざわ村、東は大島おおじま村・新木田あらきだ村、南は粟野あわの村、西は雲雀沢ひばりさわ村に接する。

天正一六年(一五八八)毛利領、文禄二年(一五九三)京極領、慶長五年(一六〇〇)小笠原領、同一七年脇坂領、元和四年(一六一八)旗本近藤領となり、明治に至る(長野県町村誌)

大平村
おおだいらむら

[現在地名]中島町大平

羽咋はくい郡に属し、むしヶ峰北麓に位置する。鳥越とりごえ川を東に下れば鳥越村。釶打なたうち郷から富来とぎ郷へ越える盤谷ばんたん峠近くの山間に開けた村。正保郷帳によると高一〇一石余、田方五町七反余・畑方九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一一二石、免三ツ五歩、小物成は山役三六匁、鳥役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)

大平村
おおだいらむら

[現在地名]下仁田町東野牧ひがしのまき

かぶら川左岸に位置し、同川沿いに下仁田道が通る。東は中小坂なかおさか村、西は坂詰さかづめ村と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳に村名がみえ、高一〇四石五斗余はすべて畑方。後期の御改革組合村高帳では高一七八石余、家数四一。天台宗永寿えいじゆ寺境内裏山中腹に、元禄一五年(一七〇二)建立の芭蕉「涅槃会や皺手合する珠数の音」の句碑がある。

大平村
おおひらむら

[現在地名]串間市大平

奈留なる村の西から北にかけての大平川(福島川支流)流域を占める。南北に狭長で、川沿いに集落が点在する。年月日未詳の櫛間院西方坪付(都城島津家文書)に「一町二反 一ノ瀬ノ門」とみえる「一ノ瀬」は当村内の字いちであろう。この頃は西方に属していたが、江戸時代は南方みなみかた郷所属。高鍋藩人給帳に寛永一五年(一六三八)知行二石を与えられた「市瀬口御番衆」八名が載る。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]金砂郷村大平

山田川の東にあり、支流湯の沢ゆのさわ沿いの谷間の村。北は玉造たまづくり村。「新編常陸国誌」に「旧ハ大平柳沢ト称ヘシニ、正保以後今名ニ改ム」とあるが、元和九年(一六二三)の亥御年貢定(「田制考証」所収)に「大平村」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「大平ノ柳沢村」とみえる。元禄郷帳に「大平村」とあり、「古ハ大平柳沢村」と注記される。

山中より白べな土、瀬戸焼の原料の白土を産し、「加藤寛斎随筆」に「白べな土は瑞竜山歴青ニ用ゐ給ふ故に、御新葬の毎度に大平村より納之」とあり、また「歴青は瑞竜山外御郭の内を詰る也、製法白べな土、餅米を以粥とす、焼酎、石灰此四品を以て練合せて埋む、及后年瑪瑙に化す」とみえる。

大平村
たいへいむら

[現在地名]松代町太平たいへい

渋海しぶみ川北岸の台地上にあり、東は菅苅すがかり村、西は松代村。松之山まつのやま街道が通る。正保国絵図に村名がみえ、天和三年郷帳では高三二石五斗余、反別六町八反余・青苧畑一反余。安永九年(一七八〇)の新田検地では高一七石二斗余。明治五年(一八七二)の戸数一八。貞享五年(一六八八)の鉄炮無之村々証文帳控(国立史料館蔵)には庄屋二人・百姓五人・名子一人が連印している。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]柏崎市大平

よね山西麓に孤立した村。頸城くびき郡に属する。海岸の北陸道に対し、山麓の頸城郡小萱おがや(現中頸城郡柿崎町)・大平村・吉尾よしお村と山越えに連絡する道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に村名がみえ、知行人は御料所・柿崎氏の相給。地味下、本納一六・五石、縄高二七・〇二四石、役家数二・人数七とある。近世初めは高田藩領。

大平村
おおだいむら

[現在地名]蟹田町大平

東は山本やまもと村、西は今泉いまいずみ(現北津軽郡中里町)、北西は大川平おおかわたい(現今別町)に接する。貞享四年(一六八七)の検地帳がないが、山本村の検地帳の除地に「八幡社二十四歩」とあり、当村の鎮守が八幡宮であることから、おそらく山本村の支村であったと考えられる。国日記享保七年(一七二二)四月一六日条によれば、伊勢神宮への献木の割当に大平村とあり、林産面では村扱いにされ、小国六ヵ村の一つであった。

大平村
おおひらむら

[現在地名]真玉町大平

湯原ゆはる村の南、赤坂あかさこ川上流域に位置する。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高一七八石余で、家数二六のうち本百姓・小百姓八、隠居・名子・庭屋・牛屋一八、人数男二六(うち名子一)・女二一、牛七。正保郷帳では真玉庄に属し、田高一〇〇石余・畑高三二石余で、茅山有、柴山有、半分日損所、新田有と記す。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]下田村大平

北の長沢ながさわ村から人面ひとづら峠を越えて南の人面村(現栃尾市)へ至る山道に沿う。東は山を挟んで大沢おおさわ村、西は同様に広手ひろて新田村。山を背にして水田を望む地にあるくるま塚は前方後円墳と思われる。陵上には明治末期まで神明社を祀っていた。周辺に市畑・門田・寺の下などの小字名がある。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]米沢市大平

李山すももやま村の南東に位置し、まつ川上流の河岸段丘上と山地に立地。幕府へ提出した郷帳では近世末まで山上やまかみ村に含まれていた。元禄一五年(一七〇二)の米沢領変地帳(市立米沢図書館蔵)では山上村の枝村として村名があげられ、上杉領村目録では山上村の四ヵ枝村の一として記載されている。村高一六〇石余、本免一ツ七歩一厘、反別田九町一反余・畑五町三反余、家数一三・人数七〇、馬一四、御買綿一五匁余・御買紅花五五匁余、高夫頭懸籾七一俵余・麦一三俵余。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]朝日村北大平きたおおだいら

高根たかね川右岸に位置し、北に蔵王ざおう山がある。北東は高根村、西南は関口せきぐち村。高根村への道は高根川沿いに一段高い所を通る。元禄郷帳に関口村枝郷として村名がみえる。初め村上藩領、のち幕府領となり、幕末には米沢藩預所。

大平村
だいへいむら

[現在地名]利根町大平

小貝こかい川東岸に東西に延びる台地に所在。南は横須賀よこすか村。元和期(一六一五―二四)は下総佐倉藩領、寛永元年(一六二四)から天領、同一九年に佐倉藩領、万治三年(一六六〇)に天領となる(北相馬郡志)。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本建部徳次郎の知行地で村高一三四・二八五石。

大平村
おおひらむら

[現在地名]八幡浜市大平

八幡浜港の湾内の村。東は八幡浜浦、西は向灘むかいなだ浦に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「大平村 茅山有、日損所」と記される。宇和島藩領。

太閤検地の石高は一八六石三斗三升、耕地面積の比率は田三九パーセント、畑六一パーセントであったが、寛文検地では石高が五一パーセントも減り、田三一パーセント、畑六九パーセントに変化している。

大平村
おおひらむら

[現在地名]設楽町東納庫ひがしなぐら

湯谷ゆや村の南に位置する。慶長八年(一六〇三)の検地を受け高二七石余を検出。幕末の戸口は一六戸・九二人(北設楽郡史)。集落の西、通称しろ山に大平城跡がある。

大平村
おおだいむら

[現在地名]朝日村下田沢しもたざわ

上田沢村の北、大鳥おおとり川右岸にあり、西は下田沢村坂上田村麻呂安倍貞任の子孫が開いた村との伝承が残る。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二一石余。正保郷帳では田高二〇石余・畑高一石余。弍郡詳記では高二二石余、免四ツ三分一厘、家数二三。

大平村
おおひらむら

[現在地名]八代市二見赤松ふたみあかまつ

北は赤松村、南は小藪こやぶ村に接する。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」には二見村の小村と記されている。葦北あしきた郡田浦手永に属し、「国誌」に高一一石二斗余とある。宝暦(一七五一―六四)頃の肥後国中寺社御家人名附では二見村懸りの村。

大平村
おおだいらむら

[現在地名]土岐市妻木町つまぎちよう

妻木村の東、鍛冶かじ川上流部にある。妻木村の枝郷で、元禄郷帳では高三四石余、旗本妻木領。元禄郡高寄帳には新村と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大平村の言及

【白石[市]】より

…宮城県南端の市。1954年白石町と越河(こすごう),斉川,大平,大鷹沢,白川,福岡の6村が合体,市制。57年小原村を編入。人口4万1852(1995)。阿武隈川の支流白石川の流域にあり,白石盆地の南半を占める。中世に白石氏が拠った地で,近世には仙台藩領の南の要所を占め,重臣片倉氏が白石城に居城し,城下町が形成された。仙台・松前道の宿駅でもあり,2・7日の六斎市が立ち,片倉氏が奨励した和紙などが取引された。…

※「大平村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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